両親の親族のなかでも、わたしは突出した若輩者である。


だいたい従兄弟と呼ばれるみなさんは、一般で言うとおおむね叔父・叔母の年代にあたる。

従兄弟の子供がわたしよりずっと年上というのはザラなことだ。

ほとんどの面子は法事などで顔を合わせるだけなので、この人たちの呼び方に困ることが多い。

考えるのが面倒なので、誰彼かまわず年上とみれば < おじさん > < おばさん > と呼んでしまうのも、これ仕方のないことと諦めていただきたい。


ところで。


2月3日、大阪の行事に煽られて世間一般が恵方巻で頬を膨らませていたこの日、わが家は父の初めての命日を迎えていた。

とはいえ湿っぽいことが嫌いだった故人であったし、わたしと姉3が繰り広げるバトルのような豆まきで大笑いしていた父だったので、もちろん節分豆は用意した。


そこへ、父の弟の嫁 ( こちら、本物の叔母 ) から電話があった。


「 不思議なことよねえ。 あなたたちのお祖父さんも、2月3日が命日なんですもんねえ・・・ 」







・・・・なんですと?




祖父、つまり父の父といえば、あの源龍である。

子供の頃の父たち兄弟に寺の雑用をさせるべく、つまらないことでも学校に迎えを寄越していたという、鬼のような住職・源龍。


その源龍の命日が2月3日だとは、うちの姉妹は誰ひとりとして知らなかった事実。


「 源龍・・・まさか父をお迎えに来たんじゃなかろーな 」


仏壇に向かってつぶやく。


「 節分に忍んでやってくるとは、源龍は本当に鬼だったのかも? 」

「 そうと判っていたら、2月3日だけは厳戒態勢をとっていたのにね~ 」

孫たちが冗談でつく悪態に、見上げた写真はなんだか笑っているようだった。



九州内に住む源龍の子供たちのなかで、寺にいちばん疎遠していたのが父、つまり我が家だった。

姉1と姉2は中学生の頃まではよく遊びに行ったというから、わたしが生まれたくらいから寺にはご無沙汰しているという計算になる。

近いとはいえ、さすがに4人の子供を連れて旅行できるような経済的余裕はなくなったということなんだろう。


しかし、佐世保からも下関からも時折遊びにくる息子たちを見ながら、同じ五島に住むアイツはなんで帰って来んのかと、源龍はあれで心配していたのかもしれない。


そういえば佐世保の伯父さんも、亡くなる前に源龍の夢をよく見ていたと聞いた。

案外、本当にお迎えに来てくれたのかもしれないなあ・・・。



今年は父が生まれ育った寺に行ってみようかと、姉3とふたりで話した節分の夜だったとさ ☆