誰かが思わぬアクシデントに遭ったとき、その人を大切に想う誰もが心配をする。
これはたぶん、人として当然の反応。
違うのは、その表現の仕方だ。
アクシデントへ至ってしまった過程を誰にともなく憤ることでしか心配を表現できない人もいる。
その人が次のステップへ踏み出しやすいような言葉を選ぶ人もいる。
わざと茶化して気持ちや場の雰囲気を和ませようとする人もいる。
身体と環境を思いやる気持ちを素直に表現する人もいる。
すべてが、その人を大事だと想うからこそのこと。
その表現に、良し悪しの違いなんてあるのだろうか?
みんながその人を愛していて、その人なりの言葉で一心に快復を願っているのならば、それはみんなが正しい。
自分と同じ表現だけが正解だなんてことがあるはずはないのに、違う表現を許さないのは、たぶんそれもその人を愛するがゆえの感情なのだろうけれど、なんだかちょっと悲しい。
言葉をかけられる人は全部わかってる。
みんなが自分を大事に想ってくれていることを嬉しく受け止めている。
なのに、その人が困って言葉に詰まるようなやりとりがされるのは・・・すごくすごく悲しいこと。
千差万別
この言葉の意味深さを初めて考え、噛み締めている・・・