はにふ野の地名 向野 | 番匠のくぐもり

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半世紀にわたる家づくりから、思うに任せたつぶやき。

 今更ではあるが、地名とは何か?
 諸説あるが、柳田国男の「地名の研究」によると、「地名とは二人以上が共に使える符号」。なんだそうである。
 さて、「の」は古代人達にとってどんなイメージした符号であったのだろうか。辞書には「野は、人里でない、草や低木が生えた拓かれていない平らな土地を意味する」とある。今で言う「郊外」の原っぱといったところか知らん。
 が、それは近代人のイメージであって、古代人達はまったく違ったイメージだったのではないだろうか。というか、むしろ逆のイメージであったはずと考えているわけ。
 「の」に当てられた漢字を解字すると里と予で、里は言わずとも知れた田と土からして人里で、予とは自分のことで「人里そのもの」と解してはどうだろうか。さすれば、野を中心に野中、向野、野々上があり、堺方面に遠野(野遠)、遠里小野、大野、南野田、南大阪に中野、生野、平野、田辺野、阿倍野(海辺野)、東大阪には焼野、鴫野、北大阪には北野、して野の最果てして野崎と、野から見てサークル状に郊外が人里化した摂河泉が見えてくるではないかと考えている。
 これは羽曳(土丹生)野に移り住んでぞっこん惚れ込んだ弱み、盲目を患っての妄想なのだろうか。さる地名リサーチのデーターをみると、全国に野の付く地名は5万とはいかないものの、1〜2万はありそう。もっともすべてが古代よりの地名か調べる必要はあるが、いずれの地も古くに人の住み着いたところが多いので、おおむね野を中心にして人口増加にともない里化していったと考えてもよいのではないだろうか。
 邪馬台国が姿を消した後、奈良盆地にヤマト王権が生まれ、そののちに河内に新たな巨大古墳が出現し、河内王権が成立した。そのときの中心地が野であったとするのは早計か……。謎に包れた古代国家胎動期のベールを剥ぐ……、もとい、野のイメージを刷新する〜。
 オッと、向野の由来に触れずに終わるところだった。川向の向は中心地の野からみて川の向こうの意味だが、向野の向は野に面したとの名付けとみた。。川向は人が住み着く以前より総合社会福祉研究所の名で呼ばれていた地で、向野は野にさほど時間差を置くこともなく地名が付されるはか前に人の生活が営まれていたと考えている分けよ。
. 時を経ず