今回は、松山の「熟田津三社詣り」の一つである厳島神社です。松山には、護国神社、伊佐爾波神社と並び、斉明天皇が出陣の際に立ち寄ったとされる三社を詣り、幸福を願うという風習があります。

 ここは、これまで紹介した寺とは、雰囲気が全く違います。何というか、これまでの歴史を支えてきた方々の精霊といいますか、魂の塊が存在しているような重みを感じる神社です。

 絵馬を展示している祠があるんですが、その絵馬だけでも何か独特な趣があります。

 また、ここには『坂の上の雲』の中でも紹介されていますが、日本騎兵隊の父と呼ばれる「秋山好古」の表忠碑があります。

 秋山好古という人は、質実剛健、質素倹約を体現したような人でした。酒をこよなく愛した彼でしたが、最後に松山北高等学校の校長先生を退職した頃には、家財道具がほとんどなかったそうです。弟は、かの有名な「秋山真之」。彼は、東郷平八郎の作戦参謀として、日本海海戦を勝利に導いた日本の英雄です。そして、彼が突撃命令として出した「天気晴朗なれども波高し」という美しい表現は、日本の現代俳句を完成させたと称される「正岡子規」との交流から生まれたものと言われています。

 そして、彼らを育てたのが、当時余土村に住んでいた「森盲天外」の祖父でした。森盲天外は、全国で初めて盲目の村長となります。彼は、当時、石手川と重信川が氾濫して田畑を押し流すため、貧しい暮らしを余儀なくされていた余土村を、「七つの村是」を作成することで「日本一の村」にした地元の名士です。また、現在、日本中で使用されてる農具の多くは、この辺りの村で開発されたものです。

 さらに付け足すと、当時、中央の政財界から逃げ出した「新渡戸稲造」を救ったのも、「森盲天外」なんですね。そう、一世代前の5000円札に印刷されていた人です。細かい説明は省きますが、彼が5000円札になれたのは、森盲天外のおかげなんですね。そう考えると、この当時、日本の将来を導いていった人物が、松山市にはたくさんいたということです。

 ああ、難しい話になってしまいました。ちょっと、情報をいれます。この神社の南側に、中華そばで超有名な「高見屋」があります。ここは知る人ぞ知る中華そばやさんです。中央官庁街の人たちもここまで食事に来ます。厳島神社に詣でたら、是非、立ち寄ってみてくださいね。