新・最果ての庭園

新・最果ての庭園

記事中の一部に、旧ブログ(gooブログ)へのリンクのためエラー表示となる箇所があります

神々は性格が悪く、その言葉は分かりづらい

 

 

C.ノーラン渾身の一作は全編IMAXフィルムカメラで撮影。並み居るビッグネームの中でも首一つ飛び出た立場の彼だからこそできる企画である。

 

しかし個人的にはあまりにも大きくなり過ぎて最近は少し理解が追い付かなくなってきたと思うところ、特に本作は一般の日本人になじみが深いとは言えない古代ギリシャの叙事詩の映画化である。西洋では常識に近い話なのであろう。公開されれば当然のように大ヒットとなっているが、果たしてわが国ではどうだろうか。

 

イタケの王・オデュッセイアは、長期に渡ったトロイア戦争の激戦を勝ち抜け故郷へ戻ろうとしていた。しかし、その途中で神々からの度重なる試練に遭遇し、戦争終結から何年経っても帰還することがかなわずにいた。その間、留守を守る妻・ペネロペの元には結婚を迫る者たちが殺到し、イタケの国は崩壊寸前の状況に陥っていた。

 

嫌な予感がしたので登場人物の名前や背景はさらっと予習しておいた。そのせいかどうかは分からないが話にはすんなり入っていけた。

 

というよりすごかった。「叙事詩」という単語がWikipediaでも使われているが、そんな小難しい言葉は必要ないスペクタクル冒険劇であった。トロイア戦争が描かれるので大軍同士の戦闘シーンは予想していた。しかし、一つ目の巨人・キュクロプスが登場するシーンでこの映画に対する印象は一変した。

 

なんだこれは。彼ら一行に立ちふさがる試練はすべてがほぼ絶望。加えて性質が悪いのは、それらには少なからず神が関わっていること。キュクロプスの父は海の神ポセイドンで自分を攻撃したオデュッセイアを呪うように仕向けるし、その後は魔女や鎧の巨人、死者の国、セイレーンの歌、巨大渦潮と船を襲う怪物などが出てきても一切助けを出さず、逆に飢えに負けて牛を殺したらそれが太陽神の神聖な牛ということで船員は皆殺しにされてしまう。

 

話は悲惨極まりないが、迫力はものすごい。都会ではないのでIMAXで観られなかったのは残念であるが、映画館で味わってこその映画であることは間違いない。

 

怪物が出てくる場面や荒れる海原といった派手なシーンに目を奪われるところが多いが、木馬の中に数日隠れたり、還ってくるか分からない王を待つといった、困難に耐え続ける場面も印象的で、神は辛抱強く正義を守り通した者のみに施しを与える神話の幹とも言える考えが投影されたものと感じた。少し日和っただけで命を奪われるのはあまりに厳し過ぎるが。

 

また、オデュッセイアが過去を振り返る場面では、勝利に終わったトロイアとの戦争や乗り越えてきた幾多の困難について、決して美談ではなく愚かな自分の行為が招いた可能性があることを示唆する作りになっており、勝利は必ずしも正義ではないという真理に苦悩する姿が物語に深みを与えていた。

 

無事帰還を果たしたオデュッセイアが王座に戻らず、自らへ追放処分を課したのも印象的であった。勝者と敗者の分断が連鎖するのを避けるために、息子のテレマコスに対しても求婚者の討伐に加わらないよう諭していた。この決断が一連の冒険を通じて彼がたどり着いた結論であり、まさに現代にも通じる事象となっているのである。

 

演者も豪華だった。R.パティンソンは今までのキャリアでいちばんのハマり役だったのではと思ったし、主役級以外でもE.ペイジ(エレンじゃない)、M.ゴスなどが短時間の出演ながら存在感を発揮していた。そうした人たちがそれぞれ印象深かったからこそ、これだけスケールが大きく複雑な話でもしっかり楽しめたことに繋がったのだと感じた。

 

とは言いながらまだまだ理解できていない部分があるはずなので、いろいろなところを回って知識の補完をしてこようと思う。

 

(90点)

看板に偽りなし?

 

 

いくらAIでも「5秒で」は言い過ぎでしょとツッコミが出ているとかいないとか。一方で「5秒」というのは想像を上回る速度であることを強調するための誇張した表現であるという見解は当然成り立つ。

 

意図せず人を殺めてしまった妹を守るために、生成AIを使ってどうすれば罪に問われないようにできるかを模索する兄。AIは証拠の隠滅や死体の偽装を指示し警察や世間の目を攪乱する。何とか困難を乗り切ったように思えたが、ある人物が兄妹に接近し命を狙うようになる。

 

周辺情報を見るかぎり原作はなく岡田道尚氏のオリジナル脚本のようである。おそらくこのとおりやってもAIは具体的な方法を教えてくれないと思うが、それなりの説得力がある流れになっているし、犯行の偽装の仕方もありそうと思わせてくれて興覚めになることはない。

 

重岡大毅は主役としては弱いのではという話もあるが、妹役の原菜乃華とともに、図らずも窮地に陥った兄妹という弱い立場を演じるには良い配役だったと思う。それよりリスクだと思ったのは田中みな実であるが、コメディリリーフにならなくてよかったというところか。彼女は左利きとして起用されたのだろうか。

 

物語に戻ると、最初からうまくいくはずがないのである。実際に殺害してしまっているわけで、それを何の罪にも問わないことは倫理上もあり得ないから、映画の良心として持っていく場所は限られているのである。

 

そうした中でのラストの展開は「そう来たか」だった。制限された範囲の中で最大限に近い意外性を発揮してタイトルの回収まで行うとは、脚本家の技量ここにありといったところであろう。しかし前半の流れを遡ってみると、少し無理のある展開だったのではと思うところが多い。

 

最初から何らかの邪心があったとしたら、途中の怯えたり落ち込んだりしていた振る舞いにはだいぶ無理がある。はじめはそこまで考えていなかったというのであれば、今度は最後でころっと変心することに無理がある。4人の殺害すべて被ったら兄は死刑でしょう、おそらく。この先平然と生きていくのは無理だと思うのだけど。

 

まああとは、進化のスピードが著しいとはいえ、現段階で生成AIの言うことをすべて鵜呑みにすることはできないということは言っておかなければならないだろう。5年後、10年後にこの記事を見返して驚いている自分がいるかもしれないが。

 

(65点)

史上最長のポストクレジット

 

 

Wikipediaでバックルームズを調べたら、匿名掲示板の投稿に由来する都市伝説と出てきた。

 

自宅兼店舗となっている郊外型家具店で、消費電力が異常に上がっている状況が確認される。調べてみると分電盤にどこともつながっていないスイッチを見つける。夜になって、その地下室から漏れてくる電気の光を追っていくと、壁の向こうに空間が広がっていることが分かった。

 

5月に北米で特大のサプライズヒットを記録した本作。異例の展開で日本上陸、しかもかなりの拡大マーケットでの公開となった。

 

冒頭は何かの調査隊による映像で、撮影者は無機質な空間を奥深く進んで行く。薄い黄色一色の床と壁の部屋が連なり、ときどき不自然な形で家具や看板が散在している。居心地の悪い違和感を覚えながらも静かな空間が続く中で、突然生物の気配や物音を感じる。ここには何かがいる。

 

舞台は変わって本編へ。家具販売店の店主・クラークは妻に愛想を尽かされ、店舗に泊まりながらひとりの生活を送っていた。地下室の壁を通り抜けて別の空間へ行けることを知った彼は、空間の研究に没頭しはじめる。そして彼は「何か」と遭遇し、以来行方が分からなくなってしまう。

 

「私たちは同じ習慣を繰り返し、結局同じ結論にたどり着く」「人間の記憶はあいまいで、物事を間違って記憶している」といった言葉が劇中で頻繁に語られる。壁の向こうの空間=バックルームズはそれらを具現化した存在と言える。

 

解釈は様々にできるだろうから現時点での私の見解を述べると、クラークが見たバックルームズは彼の脳内なのだと思う。だから部屋に無造作に積み重なっている物質は家具であり、その他の部屋も階層もおそらく彼の歴史に関わるものだと想像ができる。

 

探しに来たセラピストのメアリーに対して、クラークは以前からそこにいる主のようにシステムの説明を始める。前述のとおり、彼の記憶でできているこの空間は不完全であり、物の配置や造形はどこか間違っている。彼の横で静かに佇む人物は家族か友人か分からないが、顔のパーツはめちゃくちゃで、刺しても痛がらないし、身体は食べることができると言う。そして後ろから巨大なクラークっぽい容姿をした怪物が現れる。これは過去の彼の人物像の具現化か。

 

メアリーに襲い掛かる巨人のクラーク。逃げるメアリーの先には防護服に身を包んだ人間たちがいた。意識が戻るとそこは見知らぬ部屋の中。知らない男性が語り掛けてくる。彼らも空間の研究をしているらしい。するとここはまだあの空間の中か。空間とは何なのか。自分は出ることができるのか。

 

唐突に映画はエンディングを迎える。映し出されるバックルームズのそれぞれの空間。しかし、そこには家具販売店の店頭など劇中では生きていた空間が取り込まれていた。そして最後に映し出されたのは・・・。

 

バックルームズはクラークの脳内という解釈をしたが、その割りにはメアリーの過去に関わる下りが頻りに登場して、それがもうひとつ消化できていないのが正直なところである。メアリーが入ったバックルームズは彼女独自の仕様になっているということもあるのだろうか。

 

冒頭に注意書きが出ていたが、本作はエンドロール後に映像が流れる。しかもその長さは16分。内容は冒頭のような正式な調査の状況を改めて記録映像の形で流すのだが、調査らしく看板の寸法を測ったりしている。観なくても問題はないが、やはり16分の中でも緊張感が増していき、最後には不穏な動きが感じ取れる。

 

本作はよく「8番出口」と比較される。無機質な同じ空間が永遠に続くという点や、違和感というキーワードも一緒だから必然であろう。どちらが優劣というのではなく、それぞれに設定、表現、展開が凝っていておもしろいと思った。おそらくこの界隈のジャンルにまだ鉱脈はあるのだろう。

 

さて、記事をアップしたら、いろいろな人の解釈を見に行ってみよう。これも本作のような作品の楽しみ方のひとつである。

 

(80点)

宇宙の外だって?

 

 

13年ぶりの新作が2度の公開延期を経てようやく上映に至った。1度めの延期の情報は聞いたような聞かなかったようなだったし、背水の陣で1か月以上かけて復習上映もしてくれたおかげで、なんとか今回話に追い付いて観に行けた感じである。

 

復習上映のとき、13年前に観たはずなのに「魔法少女まどか★マギカ [新編]叛逆の物語」のあらすじをきれいさっぱり忘れていたことに驚いた。それだけテレビ版のインパクトが強く、まとめ方もキレイだったということなのだろうけれど、今回はあくまで[新編]の続きである。円環の理となったまどかがあまりに不憫だと、敢えて秩序を破壊し悪魔として君臨するほむらの世界がスタート地点である。

 

製作サイドから公開後2週間のネタバレ防止のお願いが出ている以上、現段階でここで核心に触れる部分を書くことはできないが、[新編]でも初見では物語をつかみきれず、いろいろなサイトやAIとやりとりしながらようやく納得感を得ることができた身としては、今回は更に複雑度を増しており、どう少なく見積もっても話の3分の1は理解していないことは間違いない。

 

公式サイトの記述の範囲で書くと、本作は「ソウルジェムを持たない少女が魔獣狩りを行う異常事態」となっている。これはもちろんほむらの仕業だ。円環の理の機能を停止させた以上ソウルジェムを浄化できないので、魔法少女の仕事を奪って世界の均衡を図っているわけである。

 

そうした新しい日常の中で見たことのない魔法少女たちが現れる。これも公式サイトの記述を借りると、「すべての魔女の始まりの場所――名塚底根(なづかそこつね)」「かつてほむらを苦しめた複数の魔女の集合体――ワルプルギスの夜」「
円環の理を求める魔法少女がふたり」である。ほむらが歪めた世界の隙を突いて出てきた彼女らの目的は何か。そして、ほむらやその他の魔法少女たちはどう対処するのか。

 

ふたりの魔法少女は「紫丁香」「セルマ・テレーゼ」と書かれている。事前にサイトを見ていなかったので、劇中では「チョーカ」「セルマ」と音で認識していた。もうひとり少女がいるが、キャストとしての名前はなく、劇中でも名前がないことになっている。とするとこれがワルプルギス?

 

13年という長い期間が空いたが主要なスタッフは再集結した。だから世界観は揺らいでいないし、悪夢に等しい芸術的なビジュアルも健在、というか今回は全編通して続く感じである。正直観ていて疲れる。ストーリーも練りに練って作ったのであろう。ただ、製作側の頭が良過ぎてついて行けない度が増している。またAIにいろいろ教えてもらって補完すれば満足度は上がるのだろうが、それが本来あるべき楽しみ方なのかどうかは疑問が残る。

 

理解が進まない、ネタバレを極力避ける中でいま言えることは、ほむらが行った干渉が悲しいくらいに効果を生んでいなかったことを思い知らされてショックだったということであろうか。[新編]の最後では、悪魔を宣言したほむらの前で世界は荒れ果ててキュゥべえはズタズタにされていたけど、本作の中でほむらが「すべてをほしいままにしていた」と見える部分はほとんどなく、あらゆる登場人物が幸せの方向性を見失っているように見えた。

 

そして「名塚底根」である。この場所の存在はシリーズの流れを根底からひっくり返してしまうもので、話は広がるのかもしれないが、終わりなきインフレの引き金になり得るものであり個人的には感心しない。

 

そういった意味では、エンディングも議論を呼ぶであろう。まどか、ほむら、キュゥべえ。いずれの姿も様々な解釈ができるものとなっており、ここは敢えていろいろな人やAIの意見を聞いてみたい。

 

要は理解度がせいぜい3分の2なのである。

 

(65点)

マリッジグランブルー

 

 

結婚を間近に控えたエマとチャーリー。付添人の友人男女との雑談で飛び出したエマの過去の話が、二人の関係だけでなく周りの人たちを巻き込んですべてを破壊し始める。

 

なにしろA24である。ただごとでは済まない、と言うよりまともなハッピーエンドはあり得ないと思いながら観ていた。

 

まず、エマの過去が具体的にどんなことだったのかということだが、これは結構意外だった。その方向もさることながら、話を聞いた友人・レイチェルの反応の強さに少し驚いてしまった。未遂でもこれだけの嫌悪感になるのは、お国柄なのか役柄として突出していたのか整理がつかなかった。

 

レイチェルほど強烈ではなかったが、肝心のチャーリーもかなりダメージを受けていた。直前まで丁寧に積み上げてきたはずのエマのイメージは根底から崩れ去り、疑心暗鬼に囚われた彼は結婚式のスピーチを全文削除し、一緒にいてもいつも怯えるようになってしまった。

 

しかしである。相手の良いところばかりを見ていた恋愛時代から、結婚を経て相手の足りていないところ、すなわち現実を知って、それをまるごと受け入れることで家族になっていくというのは、実は極めて普遍的なことである。

 

本作がタイトルを明示的に"The Drama"としているのは、その現実の下りがかなり刺激的であることと、そのすべてが結婚式直前の約1週間に詰め込まれてしまったこと故にほかならない。

 

それにしてもおもしろいのは、一般的なイメージだとマリッジブルーは新婦がなりやすいと思っていたところが、とにかく慌てふためくのがチャーリーばかりなことである。エマは基本的に「やってしまった・・・」だけである。口に出したことを引っ込められなければ、過去にしたことをなかったことにもできないから、腹をくくってチャーリーの気持ちが落ち着くのを待つしかないのである。

 

一旦話を振り出しに戻そうと、エマは初めて出会ったような演出をして仲を修復しようとするがうまくいかない。そしてついに、チャーリーの暴走はあらぬ方向へ飛び火してしまった。

 

A24だから構えて観ていたと言ったが、例えばエマが実は未遂ではなかったとか、結婚披露パーティーの席が血みどろの修羅場になるとか想像を膨らませて衝撃に備えていたが、意外にも場が一気に消失するような事態にはならず、むしろコメディ寄りとも思える展開であった(一部流血はあったが)。

 

散々恥を振りまいて、身体もぼろぼろになって、ようやく本質にたどり着いたチャーリー。ダイナーでひとり黄昏れる彼のもとにエマが現れる。そこで彼女がかけた言葉とは。

 

繰り返しになるが、結婚も家族も自分とは違う人間との結びつきである。単なる友人なら切り離してしまえばよいし、離縁するのも結局そういうことなのだろう。でも家族として居続ける選択をするのは、そこに無視できない愛情があるから。それなら反省して還ってきたひとを受け止めるだけの度量はほしいところ。

 

それ以前につくづく思うのは、墓場まで持っていかなければいけないことってあるよね、ということである。なんでもSNSに上げるなんて論外。

 

R.パティンソンは情けない役がお似合い。ゼンデイヤはすっかり風格が増しました。実年齢は10歳離れているようだけど、このペアリングは正解だったような気がする。

 

(75点)

愛は雄弁を超えて

 

 

「自閉症のタイプはみんな違う」というようなことを、確かグループホームの先生が劇中で言っていた。

 

「症」と付くから病気と捉えてしまうが、性格のひとつとした方が分かりやすいのかもしれない。引っ込み思案や寂しがり屋といったものと同じと考えれば、それぞれの中に細かいタイプがあると想像がつくでしょう。

 

兄の大貴と妹の希。大貴の症状は自閉スペクトラム症と言うらしい。言葉をうまく発することができず、一方で物事はタテヨコがきっちり揃っていないと気になってしようがない。歩くときの方向転換は常に90度を守り、分量を正確に測って作った料理を弁当箱やテーブルにきっちりと並べる。意思表示は不得手だが、日常生活に加えて簡易な労働も問題なくできるので、特別な施設には入らず清掃の作業員の仕事をしながら一人暮らしをしている。

 

ただ完全に自立した生活というわけにはいかず、近くに住む希やグループホームの先生、そして一緒に働く仲間たちが常に様子を見守っている。特に希は、毎週水曜日に「食事会」として大貴の部屋で夕食をともにする。彼女は小さいころから兄のことを気にかけて過ごしてきた影響か、現在は心理カウンセラーの仕事をしている。

 

希には付き合っている男性・雅也がいたが、ある日、彼は自分の両親に会ってほしいと切り出す。当然のように兄の存在を心配する希。雅也は、そのこともちゃんと話しているから大丈夫、むしろ両親はお兄さんにも一緒にお会いしたいと言っていると告げる。

 

「平行」と「垂直」は二本の直線の関係。平行はどこまでも並んで伸びる直線で、垂直はまったく違う方向を向いた直線が90度で交差する。常に90度を守って歩く大貴の姿と、タイプのまったく違う兄と妹の二人の関係をかけたダブルミーニングである。

 

父親が外に女性を作って家を出て、母親は若くして亡くなり、ずっと二人で生きてきた。自分が結婚してしまっていいのだろうか。希が心配に思った矢先に大貴が職場で事件に巻き込まれる。警察からはトラブルを起こさないようにもう一度グループホームに入れと言われ、希もつい「私の人生の邪魔をしないで!」と強い口調で言ってしまう。

 

大貴はショックだったのだろう。自分からいやがっていた施設に戻る決断をする。しかし、希が雅也の両親に会いに行く当日、大貴の姿が施設から消えてしまう。

 

大貴がいたのは、希と待ち合わせの場所としていた駅の前だった。心配だったのだ。「大貴はすべて分かっている。意思を表現するのが苦手なだけだ」。周りのひとがよく口にする言葉である。妹のことを思ったからこそ施設に入り、そして相手の両親に会わなければと思ったのである。

 

安田章大は表情をほとんど変えず、言葉も発さず、時折目に涙を浮かべる程度という極端に制限された中で、大貴の苦悩と愛情を表現していた。関西ことばでいつもにぎやかなSUPER EIGHTの姿からはかけ離れた役柄ながら、その所作だけで大貴という人間が観る側にまったく違和感なく入ってきた。

 

一方ののんは対照的で、言葉や態度をはっきり示しながら兄への深い愛情を湛える演技となっており、これもしっかりと観る側に伝わってきた。彼女もコメディだったり華やかさだったりといった部分が抑えられていた点で、これまでのイメージと異なる役柄となっていた。喜怒哀楽はあるものの、微妙な表情の変化や抑揚でそれを表現しており、こういう役柄も似合う女優になったんだというところが非常に新鮮であった。

 

脚本はオリジナルのようで、時折心が痛くなるエピソードが挟まれていたが、登場人物は基本的に人情に厚い人が多く心温まる物語になっていた。舞台は大阪府堺市で、阪堺電車が走る下町情緒あふれる界隈にしたのは、演者が関西のひとというだけでなく、映画の空気感に合う街を選んだということであろう。物事をはっきり言う関西のひとに囲まれることで、大貴の存在が更に際立つ効果もあったのかもしれない。

 

大貴と希のそれぞれの子供時代、現在の大貴と仲良くなる少女と3人の子役が出てくるが、みんな演技が達者で映画を更に引き立てていた。雅也の両親が自閉症を知らない人たちの代表として、誠実に寄り添う姿勢を示す場面にほっとさせられ、最後は、本来なら弾かれるであろう父親までひっくるめて、兄と妹を末永く見守ろうという大団円に。そりゃ泣けますって。

 

(85点)

米国版・野原一家、ファイヤー!

 

 

今夏の映画興行界隈は熱い。その主役は、話題性においては何と言っても「映画ちいかわ 人魚の島のひみつ」に尽きるのであるが、その他の作品も群雄割拠で、「TOKYO MER」の公開延期を補って余りある活況を呈している。

 

そのような中で、お盆のど真ん中に公開された本作。続篇でも人気作の映画化でもない点は勇気ある挑戦と評したいが、この状況においてはどうにも厳しいと言わざるを得ない。JJ.エイブラムスと言ってわかるのは一部の映画ファンくらいだろうし、彼のパターンとして事前に出す情報を極力絞り込んでいるものだから宣伝のしようもない。

 

予告でちらっと見た映像は、一般住宅の庭で恐竜に追いかけられる人間たち。これでジュラシック系が好きな人たちをどこまで引き込めるかということになるが、個人的には恐竜にはあまり関心がなく、「イットフォローズ」の監督が作ったということで観ようかということになった。

 

舞台はごく普通の米国郊外の住宅地。流れる音楽や家電製品などから見るに時代はどうやら1980年代前半らしい。デニースとグレッグは10代の子供二人と暮らしているが、最近どうも関係がぎくしゃくしている様子。多くの家族が庭先や路上でバーベキューを楽しんでいるが、グレッグは小銭稼ぎだと言ってピザの宅配に出かけてしまう。

 

その夜に突然変化は訪れた。まばゆい閃光と吠える飼い犬。翌朝外に出てみると、隣家の庭に大きな動物のフンの塊が。異変はそこから更にエスカレートしていき、町一帯が存亡の危機にさらされる事態となる。

 

観る前から予想していたことだが、本作はアトラクションとして観るのが正しい。いろいろな辻褄合わせを考えようとすると破綻してストレスを溜めることになりかねないのでしない方がいい。

 

住宅街一帯が2億年前の空間へ移動してしまったというのが異変の全容である。恐竜たちは次々に人間を襲う。このあたりは、ジュラシックシリーズで見た映像技術の進歩を再確認というところで、単純にすごいなーと思いつつも特段の驚きはない。住宅地を舞台にしたことで新しい発明的なものはないかと期待したが、その点もそれほど感じられなかった。

 

一方の物語は、不和になっていた夫婦と家族が団結して危機に立ち向かうもので定番であるが、A.ハサウェイとE.マクレガーが演じていることで画面が引き締まっていた。格は大事だ。中盤でグレッグがとんでもない目に遭うが、これもE.マクレガーだったからこそ驚きが大きく効果的であった。

 

もともとがフィクションでアトラクションなので、話を収拾するためのオチについても「そう来るんだ」というくらいの感想であった。忠実な飼い犬だけでなく多くの住民にとっても後味の良い幕切れは、ハリウッド大作の伝統という感じで良かったと思う。

 

身も蓋もない言い方をすれば可もなく不可もなく。テーマパークに来たけどどこへ行っても混んでいる中で、少し空いてるからまあまあ面白そうだし入ってみようかというアトラクションのような作品だと感じた。

 

(65点)

妖怪うわすべりの夏

 

 

本編の終了後に次年度の作品を特報として紹介するようになったのは最近と記憶する。

 

これは、1年前くらいには大まかな作品のテーマを決めておいて、そこから時間をかけて中身を作り上げる手順になっているものと理解している。かつては、予告で流れた映像が本編で使われないこともあったくらい行き当たりばったりの突貫工事で作られていたことに比べると、計画性を持ったプロジェクト管理に進化したと捉えられる(これはすべて想像で誤りかもしれないが)。

 

1年前に「妖怪」と聞いたときにあまりいい予感がしなかった。それは、映画館に足を運ばなかった「恐竜」に近い感覚だったかもしれない。オリジナリティに欠けるというか、何故そう思ったかについて明瞭に説明はできないが、一抹の不安を抱きながら今回は観に行った。

 

夏休みを利用して秋田の祖父母の家に遊びに来た野原一家。そこでもらったチラシの「チョコビ食べ放題」の文字につられて「ばけーしょん村」なるテーマパークへ行ってみると、そこは実は妖怪たちが暮らす空間への入口であった。

 

かつては同じ世界で共生していた妖怪と人間だったが、人間社会が急速に発展する中で妖怪が生息できる場所は失われていき、妖怪たちは別の隔絶された空間を作り自らを封印した。そして、誤って侵入してきた人間は「おしりだま」という魂を抜いて妖怪に同化させることで、自分たちの存在を人間に悟られずにひっそりと暮らしてきた。

 

しかし、その境界が破られる事態が発生する。妖怪の国を治めるリーダーに仕えるひゃくえもんという妖怪が、自らの力を誇示しようとおしりだまを集め始めたのである。迷い込んだひろしとみさえもおしりだまを抜かれて妖怪の姿に。一定の時間が経つと人間だったころの記憶を失くして本当に妖怪になってしまう。果たしてしんのすけたちはおしりだまを回収して元の世界へ戻ることができるのか。

 

本作が言わんとするテーマは分かりやすい。妖怪の存在は多様性の象徴であり、互いに理解し合うことで共生は可能であるということである。人間が妖怪を恐れる理由を「知らないから怖い」とし、それは妖怪にとっても同様であるから、ひゃくえもんはおしりだまを集めて人間界を支配しようとするのである。

 

同時に、オブラートに包みながらであるが、人間社会の過度な発展に対しても苦言を呈する。妖怪の国に残る昭和の原風景を描きながら、何か大切なものを置き忘れてはいませんか?と問いかけてくるのである。

 

というわけで、冒頭に書いたとおり計画性をもって作られた作品らしく、極めて理路整然とした出来映えになっていると感じた。一貫して敵キャラとして振る舞うひゃくえもんにも、決して芯から邪悪な存在でないという救いを用意しているあたりも抜かりない。

 

しかし、これは不安が的中したと言おうか、全般を通して感じたのは上滑りの連なりであった。散りばめられたギャグがハマらないことに加えて、特に気になったのは、ひろしが靴下の妖怪に、みさえが「ケツデカ」な妖怪に変えられる場面に象徴される「これが求めているものだよね」と見透かしたつもりで作った感が満載だったことであった。

 

これも推測で甚だ恐縮だが、「妖怪」というテーマが決まった段階で、このキャラクターをこういう妖怪に当てはめたらおもしろそうだねという発想が出てきて、そういった画がありきで作品づくりを始めたのではないかと思うのである。では、どう組み立てればいいのかと訊かれると回答に困るのだが、少なくともお馴染みのキャラを妖怪に見立てるという流れをおもしろいとは感じなかったので、今回に関して合わなかったということは間違いない。

 

「これが求めているものだよね」は、妖怪の世界を昭和の原風景にした点にも表れている。今でもクレしん映画歴代No.1と言われる「オトナ帝国の逆襲」に倣い、大人も見られる作品の押さえとして舞台を設定しましたよという状況が透けて見える。更にダメ押しで、唐突に妖怪たちと野球で対決する下りまで入れてきた。あの場面で出てきたスッシーズなる妖怪がクライマックスで何らかの鍵を握るのかと思ったらそういう様子もなく、不自然なとってつけた感が否めなかった。

 

あとは、今回はカスカベ防衛隊の活躍がほとんどなかったのも残念だった。この辺りは一種のローテーションであろうから仕方ない部分ではあるが。

 

(60点)

新たなる旅立ち、過去を引き連れて

 

 

ヒーロー疲れという言葉がある。あまりに数多くのヒーロー映画を作り過ぎたせいで、観客が飽きてしまって興行成績が伸び悩む現象である。

 

しかし、そんな状況の中でも確実にヒットを生み出せる貴重な存在がスパイダーマンである。直接的な原因としては話がおもしろいからに尽きるのだが、それは言い換えればスパイダーマンという題材に観る人を惹きつける要素が詰まっているからということでもある。

 

何より、スパイダーマンの映画には印象深い場面やセリフが多い。「大いなる力には、大いなる責任が伴う」がそうだし、かつてT.マグワイアが演じたシリーズの逆さまのキスシーンも、もはやヒーロー映画の枠を超えた名シーンとして語られる。

 

だからこそ「スパイダーマン:ノーウエイホーム」で、それぞれのシリーズのピーターパーカーがマルチバースに同時に存在する者として勢ぞろいした物語は、「アベンジャーズ/エンドゲーム」に勝るとも劣らない感動のうねりを呼んだのである。

 

マルチバースのあらゆる敵を呼び寄せてしまうという最大の危機を、自らに関する記憶を人々から消し去ることで乗り切った本シリーズのピーターは、誰も自分を知らない街で日常の敵と戦いながら隣人の安全を守る日々を続けていた。

 

そこに、人の心を乗っ取る特殊能力を持つ新たな敵が現れた。一般市民のおばさんや捉えられた罪人を巧みに操り、政府機関であるダメージコントロール局を執拗に狙う敵の目的は何か。

 

後から、映画を紹介するニュースサイトを見ると、本作に登場する敵の正体については事前からかなり話題になっていたようだ。演じるのはS.シンク。Netflixのドラマ「ストレンジャーシングス」で一躍人気者になった24歳の新鋭である。

 

事前知識を頭に入れることなく観ていたので、彼女の登場には素直に驚くことができた。まず、能力の映像表現がおもしろかったし、これは今までと次元の違う、それでいて最も厄介な敵が現れたと思った。MJを乗っ取った下りでは、劇中のピーターとともに騙されかかった。

 

真の姿を見せずして攻撃を続けることも可能だった彼女であるが、突然正体が明らかになる。操る対象の人物が運転する車の後部座席に座る彼女をピーターの視界が捉えたのだ。

 

ジーン・グレイ。言わずと知れたX-MEN最強にして最恐のパワーを持つ女性。X-MENがいよいよMCUに参戦とは聞いていたが、いきなり彼女をメインストリームにぶち込んできたかとアドレナリンが上がった。彼女に対してパワー頼りの対決では分が悪い。必然的にクライマックスは肉体戦と並行して、お互いの精神世界を舞台にした心理戦が繰り広げられる。

 

それぞれの戦いが重層感にあふれており見応えは抜群。そこにピーター自身の能力の覚醒や、MJたちとの物語が挟められていくので、ひとつの作品でありながら何本の映画を詰め込んだのかというくらいの贅沢さに満ちている。

 

でも、今思えば、人々から記憶を消したのはマルチバースからのヴィランを追いやるためのものであり、一段落したらいつでも記憶の修復に取り掛かってもよかったのかもしれない。身も蓋もない話だが。

 

MCUシリーズとしても、ハルクやブラックウィドウがクレジット有りの正式な役柄として登場する豪華さ。少なくともソニーとディズニーの壁は感じない。エンドクレジット後は「スパイダーマンは帰ってくる」。X-MENにもっと触れるかと思ったが、まだ構想段階を超えていないか。

 

(80点)

ファンタジーは表向きの顔

 

 

知識はほぼゼロ。公開直前までまったく観る気はなかった。

 

そんなときに聞こえてきた「映画版に年齢制限が付かなくてよかった」との声。少し調べてみると、どうやらかわいいだけのキャラクターではないらしい。子供が妻に観るように強く勧めたとの報せもあり、一転して公開直後に映画館へ足を運ぶことを決めた。

 

下調べもろくにしていないので、分かるのは主要キャラ3名の名前くらい。観始めると、ハチワレ以外はほとんどしゃべらないことに驚く。その程度だから、それほど難しくないストーリーであるにも拘らず、自分の中で情報処理が追い付かず苦労した。そうした中で、理解したあらすじは次のとおり(ネタバレあり)。

 

ある島で催される飲食無料のイベントへの招待状を手にした主人公たち。島へ渡り、しばらくは島民の歓待を受けるが、偶然迷い込んだ洞窟の中で、島のひみつと招待状に隠された目的を知ってしまう。

 

島のひみつとは、洞窟の奥深くで暮らすセイレーンという巨大生物のこと。セイレーンは小さい人魚を3匹引き連れて島へやって来た。島民がセイレーンをもてなす代わりに、セイレーンは特殊な能力を使って島の農作物を豊かに実らせた。

 

ある日、セイレーンは、海で遊んでいるときに偶然島民のひとりに衝突し致命傷を負わせてしまう。しかし、巨体のセイレーンは何かにぶつかったことすら気付かなかった。ぶつかられた島民の相方は、食すると永遠の命を与えられるという言い伝えがある人魚をセイレーンの元から奪うと、瀕死の重傷だった島民にその身を与えた。

 

永遠の命を得た島民。一方で、人魚が行方不明になったセイレーンは、犯人を捜すべく狂ったように島を襲うようになる。招待状の目的とは、セイレーンを討伐する者を募集するというものだったのである。

 

ここまで書いて、特段おそろしい話でもないよねと思ってしまったのは、様々な話に触れてきた経験があるからである。何の免疫もなく、幼児向け番組を見るようにかわいいキャラクターのおはなしを楽しみに見に来た子供たちが見たとしたら・・・。なるほど、そういうことだったのかと、鑑賞後にいろいろなサイトを見て納得した。

 

先入観なしに本作を観て率直に感じた思いは、「切ないおはなし」であった。家族である人魚を理不尽に奪われたセイレーンは被害者だが、ぶつかられた島民も被害者である。明らかに悪い者がいるわけではないのに、みんながやり切れない不幸な思いをする。現実社会ではよくあること、というかむしろやり切れないことの方が多いのが本当のところ。

 

そうしたシビアな現実を、浮世めいたキャラクターの世界に落とし込んだところが、どうやらこの大人気作品の魅力らしい。

 

そうして改めて思い起こすと、子供だましと思えるような場面はない。セイレーンの追跡や、島民が人魚を手にかける場面は、しっかりと怖い(場内で、泣き出した子供を親が外に連れて行ったのに遭遇したが、あれは場面が怖くて泣いたのだと思う)。

 

時折、島二郎のようなキャラクターが元気よく暴れて紛らせてくれるが、話は一貫して切ない。偶然に島民のひみつを知ってしまったちいかわの反応とその後の行動は、やり切れなさをすべて飲み込んだほろ苦いものとなっている。

 

そしてエンドロール後のエンディングでは、それに追い打ちをかけるような展開が静かに流れる。子供が本作を観てめっちゃ泣いたと言っていたが、分からないではない。もう少しこの世界にハマるようになったら、それこそ号泣することになるのだろう。

 

(70点)