My world is far from here...

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孤独な惑星に花束を。

Amebaでブログを始めよう!

みなさんは隕石にぶつかって死ぬ確率をご存知だろうか。

なんと2万分の1である。これは飛行機事故で死ぬ確率と同じらしい。
なんともびっくりである。

僕らが100歳まで生きるとして36000日ある。
この間に隕石にぶつかって死ぬかもしれないのだ。

いやはや恐ろしいものですね。



それはそうと某ブログで「自信」について書かれているのを拝見しました。

そのブログではざっくり言うと「自信をもつにはなんでもいいからとにかくやってみることだ」と書かれていました。

確かにその意見には僕も同意で、死なない程度になんでもやってみればいいと思う。

いやしかし、自信がない人にそんなことできるのか?と思ったので、僕も「自信」をもつための方法を一つ提案してみようと思う。



僕が思う自信をもつための方法、それは「人に褒めてもらう」ことである。


みなさん小さい頃のことを思い出して欲しい。

君が初めて立ち上がった時、君が初めて言葉を話したとき、君が初めてテストでいい点をとったとき。

褒められなかっただろうか?

きっと褒められたと思う。
(褒められなかったって人は僕に連絡ください。おもいっきり抱きしめてあげます。)


話を戻そう。


褒められて嬉しくない人はいない。

そしてその褒められるということをしてもらうために人はいろいろな努力をする。

例えば容姿が褒められたならもっと綺麗になろうとするだろうし、テストの点を褒められたならもっと勉強するだろう。

そしていつかそれが自信に繋がってくるのである。

褒められるようなところがない?

それなら褒められるようなところを作る努力をすればいい。


なんでもいいのだ。

小さなことでもいい。

それがいつか君の自信になるはずである。





いつもね、お星様はお願いばかりされてかわいそうだから、だからわたしがお星様のお願いを叶えてあげるの!


そんな女の子のままでずっといてください。君が僕の希望です。



こんな女の子いねーよって思ったそこのあなた。

こんな女の子がいる世界にしましょう。もしくはこんな女の子に育てましょう。

純粋無垢な女の子が生きていける世界って素晴らしいと思うんです。



と、まぁこんな具合に日に日に現実逃避が加速している僕です。

もうすぐ3月に入るということで、このままではいけないと思う僕とこのままでいいんじゃない?という僕とどうでもよくね?という僕が毎日せめぎ合ってててんてこ舞いなわけです。

新居も決まり卒業も決まり、別に不安なことなんて何一つないんですけども、いや不安じゃないことが不安なんです。

僕は不安定なことが安定だという考えですので、安定してると不安になるのです。


めんどくさいねー。ねー。


別に病んでるわけじゃないんですよ。これが病んでる状態だと言うなら僕はいつも病んでます。そうじゃないんです。

世界のことなんてどうでもよくて、僕はひたすら自分のことしか考えてない野郎なのです。

しかも、こうやってブログに書きなぐってるうちにわけわからんなって思い始めるほど飽きっぽくて熱っぽくて冷めっぽくて、だから今日はこの辺にしておきます。


自己肯定と自己否定はほどほどに。


では。


題名は夏目漱石の有名なI Love youの訳から。


この頃の日本では愛しているという直接的な表現は好まれていなく、作家は愛の表現について四苦八苦したそうな。

だからこのような綺麗な言葉が生まれたのでしょう。

日本人の遠まわしな表現も、このような浪漫がある言葉なら僕は大歓迎です。

今まで遠まわしな表現とは、ねちっこいというイメージしかなかった僕にとっては衝撃的でした。


愛が簡単に言えてしまうような時代だからこそ、儚い言葉に思えます。




今週はいろいろなことがありましたが、一番印象に残ったのは二条から上賀茂神社まで歩いていったことでしょう。

なぜそのような健康的なことをしたのか。

未だに僕にもよくわかりません。

始まりは友人の「散歩したい」というツイートから。

気軽に乗ってしまった僕ですが、当日に彼の口から「上賀茂神社にいきたい」と聞き後悔しました。

しかし、僕も彼も適当人間。方角だけなんとなく決めてぶらり京都旅をしました。

ぶらぶらと歩くこと数時間後。

道中にビール3本を消化した僕らですが、無事上賀茂神社につきました。

よく着いたなと今でも不思議ですが、神様のお導きなんだとお茶を濁しておきましょう。

数時間歩くというのは予想以上に気持ちよくて京都を初めて満喫したような気がします。



帰り道でみた鴨たちが、きっと旅を終えた僕らの心情を表してくれると信じて貼っておきます。




My world is far from here...




今夜も月が綺麗ですね。





「冬のダイヤモンド」というものをご存知だろうか。


知らなければ南東の空を見上げてみてほしい。


カペラ、アルデバラン、リゲル、シリウス、プロキオン、ブルックスの6つの恒星でダイヤモンドになっているはずだ。

冬のデートでちょっとした豆知識として披露すればよいと思う。


「今日は君にプレゼントがあるんだ」

「えーなになに?」

「上を見てごらん。あの6つの星が作るダイヤモンドをプレゼントするよ」

「素敵!抱いて!」


といった具合だ。

しかし、現実は非情である。

その後、

「今日のあなたのプレゼントを忘れないために本物のダイヤがほしいな☆」

と言われることは星を見るより明らかなので、あまりおすすめはしない。



ロマンと現実はいつも紙一重なのだ。



カペラという星は黄色く光る星で、太陽がもし同じ位置にあれば同じようなひかりかたをするらしい。

位置によって受ける印象はこうも違うのは、人間関係においても同じだ。



僕は適切な距離というものをよく測り間違い、太陽に近づきすぎたイカロスのように火傷することが多い。

女の子に「しゃべらんかったら格好いいのになぁ」とよく言われるのもその要因が大きいのかもしれない。

あまりに言われるので高校入学時にクールキャラを装っていたら予想以上にモテた。

僕のあらゆるアイデンティティが一度に崩れ去った瞬間でもあった。

しかし、そんなハリボテのクールキャラが壊れるまでには3ヶ月もかからないわけで、

結局また同じようなことを言われるようになるわけである。


しかし、最近思うのだ。僕は別にクールな一面がないわけではない。多分。

そういう一面が表面化しないだけなのだ。

もちろん年をとったからそういう一面が大きくなってきたということもあるが、僕には昔からひねた部分がたくさんある。

が、僕の普段のキャラとかけ離れた部分のために、たまにそういった一面を見せるとそういうキャラじゃないじゃんと言われるのだ。

僕はこう言われると、言葉に表せない感情に見舞われる。

キャラを作ってる、という言葉があるが結構じゃないか。

0からキャラは作れない。

少しでもそういう一面を持っているからこそ、そのキャラが作れているのである。

女の子でも不思議キャラを作ってると言われている人がいるが、僕はどんどんやれと言いたい。

仲良くなって、その人がふと見せる違った一面がいいんじゃないか、と。


自分らしさは強要するもんじゃない。

自分なんてものは常にゆらゆら揺らいでいるものなのだから。





オリオン座の一角であるベテルギウスが近い将来、死を迎える。

超新星爆発を起こし、僕達がそれを観測したときにはもうすでに消えているのだ。


あの惑星の孤独が、僕たちにはわからない。



そしてきっと、それは僕達人間に置き換えても同じことだ。

誰も誰かの孤独は理解しえない。悲しいほどに残酷なことだ。

だが、それを理解しようとする心は、とても美しい。


例え理解しえないことだとしても、美しいことなのです。



コンスタントに家に引きこもってる僕ですが、それでも外の情報というものは十分に入ってきます。

それどころか家にいるのに宇宙のことを知れるって、すごい世の中だと思います。


だけど、星を眺めるのは外で見るほうが好きだ。

こればっかりは理屈じゃなく、なんとなく好きなのだ。


思考がぐちゃぐちゃ!



ここでは僕の主観だけで物事を見ていこうと思う。

ここで書くあらゆる物事は僕の主観しか入ってないのであしからず。

このブログは僕のただの自己満足の成れの果ての産物だ。




「持ち主を救う為に離れて、その先で人目に晒される感情が可哀想」




Twitterで目に触れたこの言葉を僕なりに考えたのでまとめます。

後で聞いた話ですがこの言葉の生まれた背景には、悩みや病みをTwitterでつぶやくのはどうなの?
という議論があったらしいです。

この背景を聞いた後だと、悩みをつぶやく→悲しいだの辛いだのといった感情が人目に晒されるのが可哀想
ということなら正直、余計なお世話だ!と言うのは簡単なのでもう少し考えてみる。


持ち主を救う為に、ということは何らかの救済があると信じてその言葉は離れていったもの
であると仮定する。

ならばどのような救済を求めて離れたのか。


ただ愚痴っただけ。といった場合は吐き出したいだけなので、吐き出された瞬間救済は
成されているのでこれは趣旨とは違うだろう。


Twitterという前提を踏まえれば、言葉は言葉による救済を求めた、のではないだろうか。
何らかのフィードバックを期待してその言葉は離れていったのではないだろうか。

なら、その言葉に対して何らかのアクションを取ることもなく、可哀想というただの同情で
その言葉を押し込めることは、それこそ可哀想というものではないだろうか。


つまり、「見たら気分悪くなるからネガティブなことを言うな」と言いたいのか。

その言葉がネガティブかポジティブなのかなんてものは、それぞれの主観で変わってくるものである。


これに対して「嫌なら見るな」と言えればどれだけ楽なことか。

もう少し寛容な心で受け止めて欲しいものである、というのが僕の正直なきもちである。