三好 そうすると、三島さんの文学で、やはりひとつのモチーフになってるものに、選択と自由意志の問題がありますね。そこに、可能性の問題などがからんでくるのですが、――人間は、自由意志によって選択しますね、いろんなことを。それで三島さんの場合は、その選択が、源泉とどこかで出会いうるとお考えなんですね。

 

三島 ええ、ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由はないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤を繰り返しますけれども、自由意志が源泉を発見したときに初めて、自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまで自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それがぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの「帰郷」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。

 

三好 「剣」のモチーフも、それでしたね。

 

三島 そうです。
 現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉から絶えず遠ざかって前へ、前へ、 上すべりしてゆくように社会の構造ができている。例えばテレビ、初め、映りの悪いテレビ、それがまた映りのいいテレビ、カラーテレビになる。現代社会はその機械と同じこと、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、それは何も与えないで、僕らを先へ先へ進めるでしょ。
でもぼくらはテレビよりももっと遠くみえるものがあるはずです。いちばん前に。ぼくはほんとに、それが自分の夢ではないと思ったのは、インドに行ってからですよ。おととし(昭和四十二年)でしょうか。インドに行って人間、ほんとの能力というのはあったんだ、という感じを強くもった。テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。インド人はまだ、みている。インド人はまだ、”絶対”というものの近くにいるのです。ジャン・グルニエというエッセイストがいっています。「インドでいちばん恐ろしいことは、インド人がいつも、絶対と顔をつきあわせていること」だと。ほかの文明国の国民には、それは全然わからない。文明国民は完全に相対的な世界に住んでいる、政治組織も。政治体制が相対的。それから、経済も相対的。自由競争でしょ。それから、芸術も相対的。何もかも相対的。そのなかでは絶対には直面できないですよ。インド人だけは常住座臥に絶対とむきあっている。絶対のふろにはいって、絶対の飯を食っている。あれは恐ろしい国民だと思いますがね。

 

三好 ”みえるもの”を見るのは、人間の目ですね。

 

三島 目ですね。

 

三好 それを三島さんは信じていらっしゃる‥‥。

 

三島 ぼくは源泉にはそれがあったと思うのです。ぼくにだって。失っただけですね。
 剣道なんかやっていますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)”観世音の目”ということ、いいますね。全体をみなければならない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら負けてしまう。そうではなくて、”観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を鍛錬し、養成することが、剣道の極意と言われているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
 それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。人間の寝た跡はそんな形になっていませんよ。しゃっちょこばってますわね。寝てもまだ、からだがこわばっている。ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが、源泉なのですね。それから、運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。そして、からだをこうやって曲げても、手の指先が足につかないようになってしまう。これはもう、源泉から遠ざかってしまっているわけですね。

 

三好 つまりそれは、ある意味で、近代文明というものの人間をむしばんでゆく、ひとつの姿なんでしょうが、そういうものに対して三島さんが、作家として抵抗する拠点というものは、やはり、美ということになりますか。

 

三島 ええ。ぼくは、自由なものは美だと思うし、自由は源泉のなかにしかないと思うのです。プラトンと同じで、動くものが、美しい。ぼくは静止したものはきらいですから、美術品なんて、あまり好きではないですね。動くものが、美しい。”動くもの”というのは、自由ですし、自由は、それは未来ではなくて、源泉のなかにあるのだ、という感じがする。

 

 引用:「三島文学の背景 決定版三島由紀夫全集 第40巻」