ここでまた話しは少し逸れますが。
先月『阿雲の呼吸トークライブin札幌』に参加されたRさんがお話してくれたことで、
心を開く=悟りだよね、というお話。
この言葉を聞いて、思ったのが。
悟りを開くと聞くと、いかにも宗教的で閉じた世界のように聞こえる人も多いけど、心を開くってことは万人に通じるテーマ性を持ってるなあ、と思いました。
そして、僕の場合は言葉尻を捉えて逆手をとるような置き換えをしました。
「心を閉じてる」という思ってる人も「心を閉じてる」という認識にはすでに「心を開いている」よな、と。
「心を開いているかどうか」ということを、「心を開いていない自分」をジャッジせずに(責めずに)、新たな方法論(ものの見方)として受け取るコツかと。
今まで関心があり気になっていながら活かせてきていなかった数々のメソッドがあり、活かせてきていないことがずっと引っ掛かってきてましたが(今でもきっとそうかな)、
自分をすでに突き動かしてきているものの実態を理解していくことが、今の自分に合っていたことなのかな、と思いました。
(「合っている」という言い方は、ちょっと感覚と違うかもしれませんが。)
それが、
「知らない」ことによって傷ついたと感じること、
また、
そのジャッジが、自分の価値や安らぎの欠如(一大事)と密接に結び付いていることの気づき、
なのかもしれないです。
・・・・・
なんだか解放のエネルギーが出たようなので、これ以上思考を働かせて「いいこと」を書こうとするのもアレなので、
とりあえずここまでにします。
「気づき」が単なる「語り」になってるかもしれませんが、もちろん、そこを「責める」自我にエネルギーを与えることもないということで。
また、もちろん、これらはあくまで現時点での僕を通して作られた文章にすぎません。
はじめの気づきの時が一番勢いがあったかな。
ま、これを成果として握りしめたらまた自我のストーリーになりますけれど、
それをしていることをジャッジして責める方が思うツボ。
否定したり責めずにただ見る、ただ気づく、ていう、目に見えない心のスペース・空間・隙間を作るところが、
自我のもたらす苦しみと篭の鳥のエンドレスから抜けだして楽になるコツなんでしょうね。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
先月『阿雲の呼吸トークライブin札幌』に参加されたRさんがお話してくれたことで、
心を開く=悟りだよね、というお話。
この言葉を聞いて、思ったのが。
悟りを開くと聞くと、いかにも宗教的で閉じた世界のように聞こえる人も多いけど、心を開くってことは万人に通じるテーマ性を持ってるなあ、と思いました。
そして、僕の場合は言葉尻を捉えて逆手をとるような置き換えをしました。
「心を閉じてる」という思ってる人も「心を閉じてる」という認識にはすでに「心を開いている」よな、と。
「心を開いているかどうか」ということを、「心を開いていない自分」をジャッジせずに(責めずに)、新たな方法論(ものの見方)として受け取るコツかと。
今まで関心があり気になっていながら活かせてきていなかった数々のメソッドがあり、活かせてきていないことがずっと引っ掛かってきてましたが(今でもきっとそうかな)、
自分をすでに突き動かしてきているものの実態を理解していくことが、今の自分に合っていたことなのかな、と思いました。
(「合っている」という言い方は、ちょっと感覚と違うかもしれませんが。)
それが、
「知らない」ことによって傷ついたと感じること、
また、
そのジャッジが、自分の価値や安らぎの欠如(一大事)と密接に結び付いていることの気づき、
なのかもしれないです。
・・・・・
なんだか解放のエネルギーが出たようなので、これ以上思考を働かせて「いいこと」を書こうとするのもアレなので、
とりあえずここまでにします。
「気づき」が単なる「語り」になってるかもしれませんが、もちろん、そこを「責める」自我にエネルギーを与えることもないということで。
また、もちろん、これらはあくまで現時点での僕を通して作られた文章にすぎません。
はじめの気づきの時が一番勢いがあったかな。
ま、これを成果として握りしめたらまた自我のストーリーになりますけれど、
それをしていることをジャッジして責める方が思うツボ。
否定したり責めずにただ見る、ただ気づく、ていう、目に見えない心のスペース・空間・隙間を作るところが、
自我のもたらす苦しみと篭の鳥のエンドレスから抜けだして楽になるコツなんでしょうね。
ここまで読んで下さりありがとうございました。
