ころころ話のポイントが変わってるかも知れませんが、続けます。


思えば、どんなに素晴らしい情報も全て手放すことをしないで全部持ち歩こうとするから、動けず苦しむことになるんでしょうね。

例えるなら、アーマードコア(←ロボットで戦闘するゲームです)の武装カスタマイズで、武装を沢山装着させまくって重量オーバーしたままで武装を外さない状態でしょうか。どの武装も捨て難い、みたいに。
あれってオーバーの状態のままでは実戦モードに移れないんじゃなかったっけ。


読ませていただいた方のブログで、情報についてのスタンスの取り方を読ませていただき、なるほどなあ、と思いました。



あと、もがいている状態からの続きですが。


もがくことに夢中なところから、はたともがくのを止めた状態になり観察意識にいるとわかるときがあり、そんな時は不安感を感じている自分や気づいている自分にシフトしている時もあります。

瞑想する、という決意をしてやってるわけではありません。瞑想を課題のように実践しようとするのはどうも苦手で。

また、先日外出時に、意識だけが自分だと気づいたような感覚で歩いていた時があり、今まで状況などはいかに変わってきていても何を味わっていても、それを気づいてる意識主体という自分があるのは変わらないという気づきの位置にいて、動かない安心感のようなものを感じたような、しかし喜びなどとも違う中立的な気持ちを感じてました。

色んなところで読んできた情報のインプットが自動化された思考の影響に過ぎないかも知れませんが、


まあ、意識状態を記憶にフックするのもいいんじゃないかと思い、書きたくなりました。


「過去のどんな体験にもしがみついて持ち歩くな」というメッセージもありますが、

どんなメッセージであっても、結局はその時の自分自身の状態や感覚や意識とのすり合わせでしかないので、

メッセージが自分自身の感覚などを押し潰してしまうのでは、元も子もないですからね。


結局は、私はこれでこうだったという手札や体験や理解の見せ合い、分かち合いくらいの気持ちで出したり受けたりしたいです。

どっちでもいい、には自由さの尊重があるけど、
こっちでないとダメ、は苦しくなりがちなので。



うーん、なんか書きたいことを書きたいようには全然表現できてないなー。なんかまだツンツンしてるような。



でもまあ続けます。
分離意識を強化していた自我が優越感に浸ろうとして、たった一つの冴えたやり方や対象を求めて必死に何かにしがみつく姿は、

「冴えた」どころか、どこか「冷めた状態」で他を見下して特別感に浸っている自分をつくってきた、と言ってもいいのかも知れません。

そうやって壁を作って置きながら、誰からも気づかれにくいようなところに小さな穴を開けておいてるから、そこから沢山の美味しい料理を差し入れてほしい、というところかも知れません。

僕にとって、心を開くということは、マインドの働きが弱くなってノーガード状態で、甘えた子供のような状態で。好きだからなんかちょうだい、愛して守ってちょうだい、みたいな状態といっていいかも知れません。

それが功を奏しないとなると、自我発動です。甘えた子供の自分が恥ずかしいからというのも言い訳かも知れません。恥ずかしいというのは自分一人からでは発生しない感情のような気がします。誰からも咎めがなければ、子供でい続けるかも知れません。


(でも、稀にでも心を開けてる時って、たしかに無防備だったり盲信しやすかったりするけれど、それって嬉しくて繋がってるようで守られて安心してるような、幸せな満ち足り感があったりするんですよね。)



また、満たされない部分から好ましくないとされるパターンを繰り返すのも、自責や自信のなさなど安心感とは掛け離れた自己イメージを上張りしていくことになってる気がします。

そして、苦しみもがく中で書くので、同じことの繰り返しになっていたのかも知れません。

もがいているという内的感覚が伴っているところから書くと、たとえ内容を変えようとしたとしても似たような感覚を発信してることになるのかも知れません。

書きたいことを変えたいのであれば、内的な感覚の変化がポイントなのかもしれないですね。

不安感・劣等感・罪悪感などへのアプローチか、

または単純に自分が望み好ましく感じるものと触れ合い体験し続けるか。

まあ、どちらか一つに絞る必要もないのかも知れません。

価値観にして握りしめても苦しくなってしまうのでは、冴えたやり方も死んでしまうし。






続きます。
他の方々のブログを読んでる内に刺激されたりして、なんとなく衝動的に書きます。

ここに書くのはすでに単なる思考の残骸かもしれませんし、これからも繰り返し繰り返しまた出てくる思いかも知れません。

でもアップしてしまう。

そういった類のものです。

思えば今回だけではないかも知れませんが。


真面目に考えすぎずに、ある程度適当に読んでいただけたら幸いです(笑)



・・・・・・・




今までブログを書いてきて、自分でもよく実感してることなんですが、

苦しい中でもがくような感じでブログを書いてアップしてきたなあ、って思います。

波動的には発信しない方がいいんじゃあ?読む方を巻き込むのも…って思ったこともちょこちょこありました。

苦しい中で必死に抵抗し、もがきながら大切な何かを掴み握りしめようとしてきた。

こだわり、承認欲求、不安感、罪悪感、負い目、自己卑下、頑固さ、劣等感、評価への依存や怖れ。

そんな中で、最高の何かと巡りあいたい、それで自分を安心させ不安感を解消したい、と、「たった一つの冴えたやり方」を求めてきたような気がします。

それは、不安感から守ってもらいたかったから。愛されて安心していられたらよかった。

それが、劣等感とか、付随する色々があって、優越感に浸って他を見下すとか、ちっちゃいことをするような、根源のものとは違ったものになっちゃったのかもしれないです。

人の嫌がることをしたりするのも、求めてるから。それは突き詰めていくと子供のようなささやかな安心欲求や愛情欲求に端を発しているんじゃないかと思います。

また、そういった満たされない部分から好ましくないとされるパターンを繰り返すのも、
自責や自信のなさなど安心感とは掛け離れた自己イメージを上張りしていくことになっているような気がします。







続きます。