続きです。

実は、これからご紹介する二つ目の方法が、前回からの記事作成のきっかけでした。



普段、肉体の中に自分がいるとか肉体が自分の視点の中心とか思いがちですが。

まず、
自分(という認識主体)は、肉体の側ではなく肉体の周りの空間にいる
と設定します。


そうして、周りの空間すべてが自分だという意識で、同時に複数の方向から、いつも自分だと思っている肉体を見ます。

ただ見る感じです。

見てる主体はあくまで自分なので、イヤな感じではなく。慈しんだりする気持ちで見てもいいかも知れません。


僕の場合、そうしてると、肉体の緊張が和らいでいくのを感じることができます。


この方法のヒントは、まず半田広宣さんの『2013:人類が神を見る日 アドバンスドエディション』からで、

Manaさんの『空(くう)舞い降りた神秘の暗号』の、愛され感を感じるワークも似ているかな、と思い出しました。

自分という認識主体のままで空間が自分だと捉えた方が
瞑想法としてはダイレクトな気もしますが(変換人型ゲシュタルトへのシフト法としても)、
感性や捉え方次第で変わるかと思います。


体脱体験をした時のような感覚や、自分は遍在するすべてだった、といった感覚にも近いのではないかとも思いました(←これらはまだ体験はない僕ですが)。


この方法は、まだ試したばかりですが、自分としてはお気に入りです。

そうしたシフトに対する不安や抵抗感などが無く、
面白そうだな、やってみたいと思えるなら、大丈夫なのかな、と思います。




最後に、瞑想というにはちょっとふさわしくない、お遊びのような感じのものを。

言うなれば、最もお勧めからは程遠いものです。



方法はこう。



ぽかーんとした、魂の抜けたような、アホになったような顔をします。


そのまま、なーんにも考えず、気の知れている人の顔を見つづけます。




それだけです。




見られた人は、やがて何でこっち見てるのか聞いてきたり、止めてくれと言ったり、じーっと見つめ返してきたり、やがて笑い始めたりするかと思います。


ただ、やる。



やる理由は全くないのがいいです。



慈愛の柔和な目で見つめれば笑顔施、
覚者が見つめればアイディクシャの様なシフトの方法(OSHOの本か何かで紹介されてたと思います)なんでしょうが、



これは意味がないし面白いかと思います。