今日は自死した父の命日だ

去年も一昨年も同じことを書いた

過去記事から抜粋および加筆:

死ぬぐらいなら蒸発してほしかった。仕事も家族も周囲の人間関係も

無責任に放り出して失踪して欲しかった。失踪だったら、

今こうしてブログ書いてるときにも、ちょっと空を見て

「こうやって父親のこと書いてるけど、今頃どこで何やってんだろなー」

って想うことはできるから。そう思えるだけで十分救われる。

「あの人が失踪したせいですごく苦労した。今どこで何してんのか

知らないけど、一発ぶんなぐってやりてぇ」という感情でも同じことがいえる。

【自分の感情が向かう先】が現実にあるだけでいくらか救われる

少なくとも自殺に比べれば。死なれてしまうと、そう思うことすらできない。

ひたすら「あのとき、ああだったら」・「あの時こうしてれば」という後悔で

じくじくと心が蝕まれる。

 

これも以前ブログに書いたことだけど、自分は

ある種の自殺…例えば末期がん患者の安楽死など…に対しては

肯定的だし、古今東西には肯定的にみられる自殺の事例もある。

時代や社会制度や状況*により、

その自殺を責めることができない事例もある。

*封建制だった江戸時代の武士の切腹などその最たる例だろう
滅私奉公、主君への忠義、お家のためという理由は
現代の社会倫理を軸に考えてはいけない。

 

でも、借金苦や人間関係や

(失礼な言い方だが)パッと思いつくような

凡庸な理由で自殺するのは、自分はイヤだ。

(認めない、とは言わない・言えない。所詮自分の命なのだから

本人がどう扱おうが勝手である。高級腕時計をふいにどぶ川に投げ捨てても

バカといわれる程度で行為そのものは本人の自由である)

イヤだ、と表現したのは、自分はしたくないという理由から。

「自殺すると成仏できない・この世にとどまり続ける」

と、死んだ父親が身をもって示してくれたので

(つまり自分の枕元に化けて出てきたことがある)

どんなに現状が辛くてみじめで

「もう生きていたくない、もういいや」

と自殺しても、その結果どうなるかを

父親が示してしまったせいで

自殺はできなくなってしまった。

(成仏できずにこの世にとどまり続けるんなら

そもそもなぜ自殺したのか意味がなくなる。

この世から逃げたくて死んだのにとどまり続けるなんて!)

 

そういえば安楽死で自死した人が、死後

化けてできてたという話は寡聞にして聞かない。

やはり「死にたくないのに死んでしまった」時や

「本当は死にたくないけど心の迷いや絶望感、

 思考停止状態で死を選んでしまった」

場合に化けて出るんだろうな。

前者の場合は事故や災害の犠牲者、殺人事件の被害者の例で

後者は世間にあふれる大抵の自殺者の例。

 

今日は外出したら父が好きだった柿を買ってこようと思う。

夕飯の後にでも食べて、それが供養の代わりだ。

そして寿命が尽きるまで生きる。