*重たい話題です、長文です。

過去書いた事の蒸し返しなので無理に読まなくて大丈夫です。

 

昨日X(twitter)みてたらこんな投稿があった

何回も言ってるけど、

自分は『葬式不要戒名不要、骨は壺に入れるな』というスタンスで

無縁仏に合祀で十分という考えです。

 

これは大切な人に置き換えて考えても変わりません。

葬式でもお別れの会でも、それは生きてる側の人間のエゴです。

生きてる側の人が自分の悲しみや空虚感を慰めるためにするのが

葬式やお別れの会です、それで正しいと思ってます。

(非難・批判の意味合いではありません)

それで悲しみが少しでも癒えるのなら、行うことに意義があります。

弔うため、というのは結局は周囲の人間が気持ちに整理をつけて

故人を”生身の人間”から「思い出のあの人」に分類して胸にしまって

自分たちはこれからも生きていこう、という心理的決算行事。

 

でも死んだ当人の遺言や生前の意向で

「戒名不要葬式不用」が希望なら

それを守るべきです。個人の弔いのため、という

思いがあるならしっかり守るべきです。

良かれと思って余計なことはしない。

もしどうしても葬式やお別れの会などしたいのならば、

・故人の意思に反して、という自覚をもって

・自分たちの気持ちにカタをつけるため

・世間体のため(これは最悪の理由ですが、でも世間体を取り繕うため

 個人の意思に反して葬式を行う、というのはわりと聞く話です)

という意味を認識して行ってほしいものです。

つまり、自分らのエゴだ、と。

 

冒頭のXの投稿に戻りますが、

『自分の棺桶は自分では担げない、と言います』

だから自分は棺桶に納めなくてもよい。

自分で自分の墓の管理や保全もできないんだから

お墓もいらない骨も残すな、という考えです。

自分は、ですよ?

世間でとても有用な立ち位置の人や

とても大勢の方に慕われて影響力があった方なんかは

お墓を整備して後の世まで末永くお参りできるようにして

それで正しいと思います。

地球上の数十億の人間すべてにお墓も骨壺もいらない。

塵芥になって土に戻る、これが自分にとっての理想です。

 

また過去書いた同じ引用をしますが、

奈良時代のころに教信という念仏僧

がいましたがその人の一生:

「髪も剃らず、爪もきらず、袈裟もきず、本尊もなく、

妻女を帯して里の人たちに雇使されて、或ひは田畑を耕したり、

荷物を運んだりしてゐたが、常に念仏称名してゐたので阿弥陀丸とよばれた。

念仏の外万事を亡失せるが如し、ともいはれてゐる。

貞観七年(八六五年)に歿した。葬るに資なく屍を群犬の食ふにまかせたといふ。」

 

この「葬るに資なく屍を群犬の食ふにまかせた」というのがすごくいい。

人間だって虫や魚と同じく地球に生きる種族の一つに過ぎないんだから

本来ならばこういう死体処理で十分かと。

 

・・・あくまで、自分の考えですよ?

これを他人様に当てはめようとする気は

さらさら無いですよ念のため。