自分の生活やメンタルヘルス的なことではなく雑談です。

無理に読まなくてもいいですよ💦

 

若いころ京都にいて禅に接する機会があったが

年をとるにつれて自分はだんだん禅についていけなくなった。

その苛烈さ・激しさに付き合いきれなくなった。

同時に現実世界での禅坊主の振舞との乖離にも

悩むようになった。(慌てて付け加えるけど、本当に立派な禅僧はいます)

そのうち浄土真宗や親鸞に惹かれるようになった。一切を阿弥陀如来にお任せする、というのも

ある意味禅とは違う激しさがあるのだが(鈴木大拙だか久松真一だかも

「親鸞には悟りがあった」って言ってた気がする)禅のケレン味が過ぎる激しさはなんというか

一人そっぽを向いて山頂に佇んでるかのような人を置いてけぼりにしてる感がある。

(ええ、わかってますよこういう考え自体妄想、野狐禅だって。

[却って一念迷うが故に自ら凡夫となりさがる・憐れというも愚かなり]って自覚はありますよ…)

 

 

「無事是貴人」とか「本来無一物」とか呟いてすまし顔してれば

「当所即ち蓮華国、この身即ち仏なり」だなんて

そううまくはいかない、現実はそんな甘くないのは子供でも知ってる。

 

話はずれるが禅語の中でも特に有名な「本来無一物」、自分はあまり好きではない。

この言葉は、五祖慧能の有名なエピソードの

『時々に勤めて払拭し 塵埃を惹かしむ莫れ』

(日々修行に勤め、心に煩悩の塵埃が付かないようにしなければならない)に対するアンサーとして

『本来無一物  何処にか塵埃を惹かん』

(無いものにどこに塵がつくことがあろうか。本来無一物であるから払ったり拭ったりすることもない)

という偈を示した。禅の境地を体現した言葉だとして臨済宗では特にやたらと目にする機会がある。

これについて、学校の教師もしているとある禅僧が講話の中で

この二つは車の両輪のようなものでどちらか一つではだめだ、二つきちんと心に留め置かねばならぬ、と

言っていたが本当にそうだと思う。いくら本来無一物といっても現実は

斬れば血が出る肉袋を抱えて生きてるのだから腹もへれば欲も出るので

やはり塵埃を惹かしむ莫れ、『本来無一物』にかまけて慢心してはいけないと言っておられた。

 

だらだらと書いたけど、もう一つ書く。

自分の今までの体験・経験上、これは本当のことだと保証できるのは

「顔を見れば人格がわかる」、「目は心の窓」これは本当です。

大本山に務めている高僧でも臘八大摂心を十度も潜り抜けてきた古参の修行僧でも

これは当てはまる、本当です。卑しい顔つきの人は、たとえ紫衣を着てても卑しいです。

10年も20年も僧堂で修行して本山の塔頭寺院を任されてる高僧でも卑しい人はいます。

逆に飄々として毒気が抜けた顔立ちの人は本当にそのとおりです。

良寛さんや仙厓和尚のような方も存在します。

(なんか内部告発めいてきた)

その人がいくら立派な袈裟を着ていても、顔と目を見て感じたことがあればそれが答えです。

怖いことなんかない、顔と目にはその人のすべてが出ます(だからこそ怖いんだけどね)