いきなりこんなセンシティブな話題をするのは訳がある。
今朝、スマホにメッセージが届いた。姉からである。
母親がクモ膜下出血で倒れて入院した、とのこと。
姉も自分の現状は知っているので、色々な事はこちらでやっておくと書いてあった。
もちろん心配だし、病名が病名だけに先は長くはないだろうし
不安感も多少はある。ただそれと同時に肩の荷が下りるような、
頭の上に覆いかぶさっていた漬物石が取り除かれたような身軽さを感じた。
母親を憎んでるわけではないし、自分は長男なので本来ならば
亡くなったときは喪主として率先しなければいけない事もわかってる。
ただ心の病と個人的信条で母親のもとに行くつもりはないし、
そうすることによって姉から恨まれることも承知している。
普通に考えれば薄情で冷酷な態度なので、母が死んだら
ひょっとすると化けて出るかもしれないがそれもしょうがない。
自分は10代の頃に家族と離れて一人で京都に行ったが
その頃から、どんなにお世話になった方の葬式でも一切出ないし、
又自分の葬式もやってほしくないという
確固たる思いをもっていた。しばらくして社会人になり色々あって
さらに無縁仏希望、位牌も骨も残してほしくないという思いが加わった。
自分の亡骸(の一部)が延々とこの世に残り続けるだなんてうんざりする。
お墓に入れられ手厚く供養されると逆に成仏できずに化けて出そうだ、自分の場合。
葬式も戒名も、生きている側の都合だ。批判してるわけではなく
生き残った側が式を行うことで心の安心を得られるならそれはそれで、いい。
どんなに孤絶した状況でも、現代社会に生きている限り多少の人間関係はできてしまう。
その最大にして最も根が太い親兄弟との関係(縁)もこれを機にぶった切ろうと思う。
これは理解されないし、して欲しいとも思ってないが
人と人との縁を大事にしない生き方をしたその末に孤独に野垂れ死にして、
極めて事務的にヒッソリと亡骸を処理してほしいのである。
世間的には寂しくみじめな最期になるんだろうけど、それこそが自分が望んでることなんですよ。
その際に自分の死骸を片付ける人には申し訳ないと思う程度で。
(ヤケになってるわけでも破壊願望があるわけでも自死したいわけでも無いですよ、念の為)
良縁・悪縁があるように、親兄弟や実家なんてのも良い所もあれば悪い所もあります。
その良いところも悪いところも、自分には等しく重みを感じて鬱陶しいわけです。
これは前述のとおり若い頃から抱いてる思いなので、精神疾患による影響でこんな考えになったのでは無い。
『人間は無用な受難である』というサルトルの言葉や
『あわれというも中々おろかなり』という蓮如上人の言葉が思い浮かぶが
若いころから心の深い所で考えていたことをこうやって開陳するのは手間がかかる。
どう結んでいいかわからない。
母親はまだ病院で生きてるのに死んだ後の話をするだなんて不孝の極みだが、
しょうがない。どこかで本音は言っておきたい。
(個人的でなかなかに重たく理解しづらいだろう記事なので今回はコメント欄なしで。