先日書いた雑穀おじやについてもう少し書く。

寒い時期は、ほぼ毎日夕飯はこの雑穀おじやで過ごす。

雰囲気的には、まんが日本昔話等でよく見る、

田舎の囲炉裏にかかってる鍋で作る雑炊的な感じ。

さすがに大晦日や正月はちがうが、それでも過去のSNSを探ったら

もう元旦の夜にはこのおじやを食べている。味が雑味で主張しない分飽きがこないのかもしれないが、先日おじやのことを書いていてふと内田百閒の、毎日の習慣で同じ近所の蕎麦を食い続けることを書いたこの随筆を思い出した。

 

うまいから、うまいのではなく、うまい、まづいは別として、うまいのである。爾来二百餘日、私は毎日きまった時刻に、きまった蕎麦を食うのが楽しみでおひる前になると、いらいらする

朝の内に外出した時など、午に迫って用事がすむと、家で蕎麦がのびるのが心配だから、大急ぎで自動車に乗って帰る。たかが盛りの一杯や二杯の為に何もそんな事をしなくても、ここいらには名代の砂場があるとか、つい向うの通に麻布の更科の支店があるではないかなどと云われても、そんなうまい蕎麦は、ふだんの盛りと味の違う点で、まづい。八銭の蕎麦の為に五十銭の車代を払って、あわてて帰る事を私は悔いない。

私は鶯や、エナガや、めじろなどを飼っているので、時時、小鳥達は毎日ちっとも変らない味の摺餌[すりえ]をあてがわれて、さぞつまらない事だろうと同情していたが、お午の蕎麦以来、味の決まったすり餌はつまらないどころか大変うまいに違いないと想像した。小鳥達が、さもさも美味そうに食う有様を思い浮かべながら、自分の蕎麦を啜ることもある。

(「無絃琴」 内田百閒 旺文社文庫から)

 

中島らもは自らのエッセイで上記の部分を取り上げて曰く『エサ美味い論』と言っている。毎日毎日決まりきった食事をとるのは幸福なのである。見栄を張ってる訳でも清貧の美学に酔ってる訳でもない。毎日決まった飯を食ってるからこそ、それが美味いのだ。

毎日いろいろな違った料理を食うのは胃も心も疲れる。