P120

そこには、何の思惑もない。

ただ頭皮を傷付けないために気をつかってくれているのだ。

ああ、と夢生は不意に泣きたくなる。

予期しない瞬間に差し出される日々の糧。

自分は、この人に翻弄され過ぎている。

でも、心に決めた男に手玉に取られたままの人生って、どうして、こんなにも、幸せなんだろう。

退屈という代物を見事に遠ざける。




P134

どんなに聡い人間にも見えないものがある。

それは、体感したことのない愚鈍どもの幸福。

それを他者によって与えられる時、ぼくたちは、恋に落ちた、と形容するのだ。



P142
「こういうのを恋って呼ぶのかなあ、なんて、あやふやな疑問を持つ時って、そうじゃないんですよね。
落ちたら、すぐに解るもんなんだ。
あまりにも強烈で、疑問の余地なんかない。



恋。

本当は、いくらでも口に出して良い言葉なんだ。だって、他人から与えられる衝撃のひとつの種類に過ぎないんだもの。ただそれが、武器もなしに人を簡単に征服してしまう得体の知れないものだから、声に出して語るのがはばかられるのだ。誰だって、あっと言う間に骨抜きにされた、だらしない自分を人前にさらしたくはない。多くの人々は、ちまたの流行歌あたりに、その役割を譲る振りをする。



P150
「そもそも、人が何かを感じる時に、何か理由なんてありますか?
人の行動に伏線なんかない。衝動しかないんだ。
あと、運命しか」


P160
「おれがいないことで、おれが一番大事だって解るんだ。
不在が一番の印象を残すってさ、なあ、ユメ、すごいと思わない?」



P169
確かに金木犀は満開で、むせるような甘い香りを放っているけれども、どうせなら瀬太郎と二人きりで、あの木の下に立ちたかった、と夢生は、もどかしく感じるのだった。しかし、自分と無関係の人々の中心にいて、完璧に社交性を発揮しながら、この上もなく感じ良く振る舞う彼をながめるのも悪くない。自分の部屋に流れる時間との隔たりが大きければ大きい程、優越感を覚えるのだ。


P172
「目だけじゃないんじゃない?ユメは、色んなとこが、おれのための感覚器になっちゃったんだよ」
「おまえはそれしか能がない下等動物になっちゃったんだよ、ユメ」

それの何が悪いんだ、と夢生は、ぷいと横を向く。
夢中になればなるほど、人は幸せに退化して行くものなのだ。



P193
その所有物の中に、ぼくはいるの?
そう尋ねたいけど、尋ねられない。
だって、イエスと答えられれば至福。
否定されれば、深い絶望の淵。
ぼくは、神様が決めたきみの持ち物として、永久に、その人生の裏側に、巣食いたい。


P195
「シゲの本当に欲しいものは、きっと、周りからは見えないもんなんだよ」

P197
「なんで、ぼくなのかって!?ユメさん、まだ解らないの?
理由なんて、ひとつしかないんだよ。
ぼくがぼくだからという、それしか」

その瞬間、夢生は、自分の愚かさに気付いて愕然とした。
彼らの思い、まさに、彼らと同じ思いを、自分も保ち続けて来たのではなかったか。
他人への説明不可能な真理。
その人間が、その人間であるから。





やっぱり 詠美さんは  すごすぎる。




壮絶な作品でした。

なにがが込み上げてくる。

悲しみも 愛しさも。








来週サイン会。
今から緊張するけど。たのしみ。



P188
小説の効用は知っている。
その世界が導いてくれるままに進むと、そこには、もうひとりの自分がいる。
そして、これまで語り得ずにいたあらゆる事柄を言語化して、代弁してくれるのだ。ジョン・フォックスという作家は、ぼくのひりついた気持こそが真実だと同意し、居場所を与えた。