今日は始発で横浜まで行って、友人と会って来ました。仕事で仙台から横浜に出張してて、会うのは久しぶり。
んでまぁ、奥さんとか1歳ちょっとの娘からのメールが楽しみだとかなんとか。ちっちゃいときの赤ちゃんって、写真だと見かけ上、男も女もあんまり違わないね。最近の写真で髪も長くなって女の子らしくなってきたというか。
それはさておき。ここから先はちとドライな話。奥さんから転職して欲しいと言われているらしい。養育のこともあるし家族と離れて暮らしているというのが主な理由だ。もうひとつ、会社の組織変更で平社員の格付けが一緒くたにされて給与面でも上昇の見込みが立たないというのもある。俺と同じ歳だし、20代のうちに転職したほうが良いと思う。独身という立場の分、俺はまだ気楽なほうだが、友人の抱えるプレッシャーたるやどんなものだろうか。
つくづく思う。現代日本は企業と労働者で隔たれた階級社会で、俺達はいつの間にか『奴隷』だったんだと。士農工商は江戸時代の身分を現したモノだけど、現代は明文化されてないだけで、俺達はただぼんやりしてる間に『奴隷』にされたんだと。カネという概念に縛られて、わずかばかりのカネという蜂蜜に集まる働き蜂に過ぎない。
正直に言おう。友人も含め、俺達は世の中を知らなさ過ぎた。新卒から過酷な環境に押し込められれば、それがそいつにとってその環境は『スタンダード』となる。十分な設備ナシ、ルールがぐちゃぐちゃな開発現場に押し込められて、機械以下の扱いしかされず、恫喝パワハライジメ不倫に不正を見せつけられればそいつにとって『それが世の中というもの』とスタンダードになる。
基準というのは恐ろしい。一度慣れきった基準は、基準と異なる世界もあるのだという希望も持たなくなる。それが当たり前なんだと思うようになる。そして皆、カネに頭を垂れて、テーブルに載った一切れのケーキに群がるように、カネを求めるようになる。そこには人を大切にしようだとか幸せが大事だとか、そんなキレイゴトは一切ない。
企業はブランドイメージだけはしっかり着飾ろうとユーモア溢れるCMを垂れ流して「お客様」の笑いを誘う。その裏で製品を作る側の人間たちが、どれだけ怪我しようが病気になろうが家庭崩壊しようが死のうが知ったことじゃない。
人間をいかに使い回し、コストを下げて給料を払わずに株主の機嫌を取って自分達の懐に入れるかしか考えてない。
今に至った人生が良いものだったか悪いものだったかなんてわからない。そんなことも今頃になって身に染みて思い知ったのかと笑われるだけかもしれない。正直高校生の段階でバイトなり、大学生でインターンなりを経験しておけばもっと早く知ることが出来たかもしれない。だがA4ノート目いっぱいに数式や証明を書き並べ、時間を忘れて孤独な空間に入り込めた時間、あるいは答えを知ることでなく「考えること」の価値が如何に崇高なものであるか、そんな世界に浸れた経験はそれでは得られなかった。
馬鹿なりに今更、世の中の構図みたいなものを身に染みて知ったわけだが、俺はそれでも人間を「奴隷」みたいに扱わない世界を夢見たいと思う。青臭い話だが、「当たり前の外にいる人間」でありたいと思う。それが、「奴隷であること」に逆らいたい俺の理想論だ。