勇気っていう感覚自体が『生きることに矛盾した感覚、邪魔な感覚』というのは昨日、記事にした。
反対の感覚である『臆病さ』は現状に留まろうとする感覚だから当然あるべきものなのだ。垂直抗力だよな。無きゃ駄目なものなんだ。
ところで、人間の感覚として興味深い『悪癖』を発見した。発見というほど大袈裟なものじゃない。普段からいつも見ているものだ。今回はそんな『悪癖』について記事にする。
『悪癖』とは【人間は他人に対しては勇気を求めたがる】というものだ。本人はその場に留まってるくせに、相手に対しては勇気を求めたがるんだぜ。まるで、相手が勇気を出せば自分も変われると思い込んでるかのように。そういう経験、あるだろ?
だが往々にして、そういう経験を経て勇気を持てた試しはほとんど無い。皆無と言っていい。それは他人から受けた『借り物』だからだ。『借り物の勇気』は自分の物じゃない。自分の物じゃないってことは、虎の威を借りた狐ってことだ。
同じように、法律や道徳も同じだ。目の前に悪事を働こうとした人間がいるとする。かなり血が上った状態だ。アンタが勇気を出して説得を試みようとするシチュエーションだ。
法律の名を借りるか?道徳でダメだからと言い張るか?学校で教わった法律や道徳なんて所詮借り物。借り物は『正義』じゃない。
法律や道徳を持ち出した時点で、虎の威を借りた狐と同じ。相手は『借り物の勇気と正義』を前にして、渋々止めるか、または実行に移すだろう。
本当の勇気って何だろうか。目の前にあるものから目を背けて怒鳴ったり脅したりすることだろうか。『借り物の勇気』では共感は得られない。一時は止めるかもしれないけど、また実行に移すかもしれない。
だからこう思う。自分が臆病だと言うことを受け入れる。受け入れた上で相手を止めたいと思うことだと。
言うのは簡単だけど、実行するのはほとんど出来ないと思う。俺だったら命乞いするかもな。臆病だし。
臆病の上に成り立った勇気っていうのは説得力があると思う。その場凌ぎで恐怖から目を逸らした勇気は迫力はあるかもしれないが説得力は無い。怖いと思いながらそれでも搾り出した言葉は例え矛盾していても感じる部分はあると思うんだ。