『浮気したら許さないから』
そう睨みつけて言い捨てた女、鹿江玲子(かのえ
れいこ)と別れたのはつい2ヶ月前。
俺、瀬野尾義人(せのお よしと)は今、新しい彼女、出羽詩絵(いずは しえ)と付き合っていた。
玲子はとにかく凄まじい女だった。テレビでたまに放送する、『束縛する女』だった。でもその束縛具合が酷い。ケータイの中身を見ることくらい当たり前。パスワードロックしても糾弾される。鞄の中身、財布の中までチェックされ、レシートやら割引券がネタでいらぬ誤解を招くことが多々あった。
下着から靴下に至るまで、何から何までチェックされる。そんな玲子なものだから、男の俺としては逆に浮気したくなるというのも自然と言えば自然なことだった。
俺の浮気が発覚してから、玲子との抗争もすさまじいものだった。浮気相手の家に乗り込んだり、俺の家の家探しをして、さらには実家にまで乗り込んできたほどだった。
別れるまでに1か月を要した。その間に、浮気相手とも別れる結果となってしまった。ほどほどの関係が恋人関係を続かせる秘訣、俺はそう思うことにした。
暑い。夕方の西日が射す自室の中で、俺は扇風機を効かせながら寝転がっていた。何をするでもない、とにかく待っていた。詩絵が今夜、ここにきて夕食を振る舞ってくれると言うのだ。俺は空腹と暑苦しさで何をする気もなく、ただ詩絵が来るのを待っていた。
ピンポーン。
インターフォンが鳴る。詩絵だ。慌てて俺は起き上がり、詩絵を出迎えた。
『おじゃましまーす』
詩絵はにこにこと挨拶をして、室内に入っていく。
『義くん、お腹空いてるでしょ?これから作るから待ってて』
『ああ、ありがとう、詩絵』
そうして、詩絵は台所へと向かう。詩絵は長い黒髪の細身の小柄な女性だった。前髪が揃った髪型がなんとも日本人形のようで可愛らしい。男の気持ちを掴むには胃袋を掴めという言葉があるように、詩絵もご多分なく料理が旨かった。空腹感が詩絵の料理を一層待ちわびさせた。
せっかくの来客なので、部屋にクーラーを入れる。節電はこれで終わりだ。
トントントン、と小気味よい規則正しい音が聞こえる。俺はぐったりと寝そべって寛いでいた。携帯電話を見る。液晶のアナログ時計は17時を指していた。
とんとんとん…。
規則正しい音は人を退屈にさせ、眠気を催す。空腹感もあって、俺はだんだんと眠りの淵に落ちていった・・・。
俺の部屋。自宅の俺の部屋。どうやら眠っていたようだ。
とんとんとんとん・・・。詩絵だろうか?そう思って、台所へ行くと・・・。
包丁を切っていた人物が振り向く。玲子。
ああそうか、玲子とはまだ付き合っていたんだっけ。
「なぁ、何を作ってるんだ?」
話しかける。でも玲子は答えない。
とんとんとんとんとん・・・。
ぴたりと包丁の音が止まる。玲子は、こちらを振り向き、ニコリと笑う。
そして、不気味な冷笑を浮かべてこう言った。
「浮気したら許さないカラ」
まるで蛇のような冷笑を浮かべてケラケラと玲子が笑う。俺は背中を向けて駆け出す。俺の部屋だった場所が、真っ暗になる。俺は走る。ひたすら走る。玲子から逃げるために。
ぬるっ。
いきなり足元の感触がなくなる。ぬるりぬるり。ぬるりとした感触。真っ暗で何も見えない。泥か?
ぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬる。
なんとも生温かい感触が、俺の足元を浸食する。
ぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬるぬる・・・。
そうして、俺の足元が沈んでいく。抜け出せない。底なし沼のように沈んでいく。
もがけばもがくほど俺の体は沈んでいく。
ぴたりと沈みが止まる。ここが底か?いや・・・。
「浮気したら許サナイカラ」
掴まれていた。俺の上半身が、巨大な手に掴まれていた。俺の目の前に現れたのは巨大な玲子。玲子は蛇のように舌なめずりしている。
「ひ・・・ひぃぃぃぃぃいいいいいいいい!!!」
必死に振り切ろうとする。でも力が入らない。入らない。入らない。蛇に睨まれた小動物のような俺を、玲子は大きく口を開けて・・・。
「うわあああああああああ!!」
がばっと起き上がる。あまりの叫び声に詩絵が驚く。
「ど、どうしたの?義くん」
とたとたと詩絵が駆け寄る。俺は背中も頭も脇も汗だらけだった。
はぁはぁと息を切らしながら、詩絵のほうを見る。詩絵はきょとんとした顔でこちらを見る。
「ああ、悪い・・・なんか怖い夢を見たみたいなんだ」
俺は片手で頭を抱えて答えた。
「あらあら、この悪戯のせいかしらね」
悪戯?よく見ると・・・足元は、バケツの入ったぬるま湯、そして上半身には厚手のタオル。頭にはこれまたぬるま湯の濡れタオルがかぶっていた。
「あたしが台所で暑い思いをして料理を作ってるのに、義くんたら涼しいところでくつろいでるから、なんかイラッとしたから悪戯したの」
悪気はなさそうに詩絵が苦笑する。なんだ、さっきの夢はそのせいか・・・。
詩絵は台所へ戻り、料理を続ける。
とんとんとんとんとんとん・・・。
今、何時なんだ?俺は再び携帯電話を手に取り、時間を確認する。18時半。1時間半も眠っていたのか・・・。
・・・いや、ちょっとまて?1時間半も経ってるのに、なんでまだ包丁を使ってるんだ?料理ってそんなに時間のかかるものだったか?
そうして俺は、はっと携帯電話の画面の変化に気づく。メールの受信箱の画面だった。メールの新着。17時36分。送信者は・・・ナミエ。
本文は・・・
「義~。明日の夜そっち行っていい?」
とんとんとんとんとんとんとん・・・。
包丁は規則正しく音を続ける。
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん・・・。
包丁の音はだんだん大きくなっていく・・・。
どすっ。
まな板に包丁が突き刺さる音がした。
「義くん・・・」
台所にいた詩絵は、背中を向けたまま呼びかける。
詩絵はゆっくりと振り向き、あの女と同じ蛇のように唇を曲げて笑う。
「浮気シタラ許サナイカラ」
(完)