【児童虐待を無くす、ある1つの言葉】児童虐待のきっかけと心の闇 | AQUOSアニキの言いたい放題

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児童虐待のきっかけと心の闇
 折にふれ、TVや新聞で目に飛び込んでくる痛ましいニュース。「子供が虐待を受けて…」。 どうしてこう..........≪続きを読む≫


痛ましい事件が続いています


俺は親になったことは無いし、もしそうなったら、と仮定して話をするしか無いのだが、

自分の子供は大事な存在なのでしょう?


児童虐待というものは、両親だけに限った話ではない。

あまり考えたくないが、近所の隣人、学校の先生、習い事の先生でも虐待は起こりえるし、

全く無関係の人が見ず知らずの子供や動物を傷つけるという事例も実際に起こっている。


どこまでがしつけ、どこまでが虐待、いちいち定義していたらキリがないし、

線引きして出来るものではない。


だから、一言だけ。

虐待の疑いがあれば、


自分の正義を信じなさい。


ただの勘違いで、恥ずかしい思いを自分だけがしてしまう、それでもいいじゃないか。

命が脅かされる危険を考えたら、こっちのがまだ結果を考えればマシなはず。


子供がいるのに、まったく外出する気配の無い家、親が何をしているのかさっぱりわからない家、

一概にそうとは言えないが、・・・可能性はある。


ただの勘違いで終わればそれでもいい。

ただの近所迷惑で終わったとしても、それは心配からくることなのだから恥ずかしく思うことは無い。


最悪のケースで無ければそれでいいじゃないか。


もし隣人で虐待の疑いがあるのなら、迷うよりも、

自分の正義を信じなさい。


今はほとんど使われなくなってしまった言葉だけど、

人間が一番、真に自分と向き合うには、やはり正義に基づいて行動できるかどうか、

自分に正義があるのかどうか、そこが重要なのだと思います。


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