『一流の男、二流の男』 ..........≪続きを読む≫
(記事引用)
鯨漁師が、夫婦の鯨に出会ったとき、必ず雌を先に狙う。それはなぜか。
雌が捕まったとき、雄の鯨はそこにとどまりますが、雄が先に捕まると、
雌は逃げ去ってしまうから。
つまり、雌から捕まえないと二頭を仕留められないのだそうです。
これが江戸時代の鯨漁の掟だったと、
山本一力氏の新聞連載小説「ほうき星」(産経新聞)で紹介されました。
雄が捕まりそうになったとき、雌がさっさと逃げ去るのは理にかなっています。
雌は子を産む存在、雄はほかにもいるのだから逃げて当然。
反対に雌が捕まりそうになったときの雄の態度は健気です。
単独で逃げたっていいのに、雌を案じてその場にとどまるのですから。
「やはり男は、こうでなければいけない」と話すのは
出版プロデューサーの川北義則さん。
「最近の人間の男は、いささか情けないのではないだろうか。
女・子どもを守るどころか、害を加えたり、自分のために利用したりもする。
自分より弱い者に向かうとはもってのほかだ。
鯨だけではない。子育て時期の動物は、例外なく命を賭して子どもを
守ろうとするものだ」と川北さん。
大人同士のトラブルは、個々に事情があるでしょうから
一方的に非難できませんが、大人の男が女・子どもを虐待するのは、
どんな理由であれ許すわけにはいきません。
「弱いものいじめをするなんて最低ランクの男といってもいい。
立ち向かうなら、自分より強いものを相手にすべきである」と川北さんは憤ります。
私たち大人の男は「万物の霊長」どころか、
鯨にも劣る存在になってしまっているのかもしれません。
この記事について、あえて反論したい。
クジラといえども、理に適ったやり方だろうがなんだろうが、
夫婦ないし気持ちの通じ合ったカップルなら、理屈を超えた行動をとることだってあるだろう。
人間も然りだ。
それから、男の身から言わせて貰うと、
DVやいじめ、その行為自体は、男らしくないと俺も思うが、
俺が注目したいのは。その行為に至るまでの背景だ。
父親の立場であっても、妻や子供に普段全く期待されていないとか、
無関心だとしたら、コトを起こすかもしれないし、そんなときに、
いざとなったら「家族を守れ」とか「守るのが当然」とか、
ムシが良すぎやしないか?
まぁこれだけで割り切れるほど、家族の関係は簡単なものじゃないことくらいはわかってる。
ただ、俺は(独身だけど、妻子持ちの父親だと仮定して)、任されるのは嫌いだ。
「役割だから」守るのはキライだ。
自発的に思わせることが、他の家族として大事なことなんじゃないのか?
普通に家庭築いていればこんなこと当たり前なんだろうけど。
このニュースの記事の書き方だと、いかにも
「父親が守るのは当然、考えるまでも無い」
「世の風潮として当たり前、男として当たり前」
だとか、そういう押し付け的な印象を受ける。
父親に普段はまるで無関心なくせに、いざとなったら、
その父親に責任を押し付けるかのごとく、「しっかりしろ」とか、
「男らしくない」とか、「見損なった」とか、言いふらすのが家族なら、
俺は家族など要らない。
現在父親やってる方、もしこの記事を読んでいるとしたら、どうお考えだろうか?
俺は父親失格だろうか?
もちろん、無関心になってしまうには、父親自身にも問題があるのかもしれない。
しかしだ、やはり「守る」というのなら、それなりの使命感とか責任感は必要だと思ってるし、
「役割だから」守るということこそ、父親としての自分を見つめることからの「逃げ」なのでは無いだろうか?
