息子がICUにいる間、旦那は休みを取ってくれて、一緒に過ごした。
面会以外の時間はどう過ごして良いか分からず、
気を紛らわそうと車で地元を案内してくれたりしたが、私は常に込み上げる涙との闘いで、何も目に入らなかった。
息子がいなくなってしまう恐怖感に押し潰されそうだった。
面会時間の数分だけが、
「あぁ、今日も生きていてくれた。」
と、安心できた。
私の実母には、入院の日に旦那から説明だけしてもらっていたが、二日目の昼間、電話をかけることにした。
当日よりは冷静に話せる気がしたが、だめだった。
「…もしもし?」
名前を呼ばれ、母の声を聞いた途端、
今まで必死に我慢していたものが、ぷちん、と弾けてしまった。
おそらく小学生の時以来ぶりに、わんわん泣きながら母と話した。
出産のとき、旦那のかわりにずっと側にいてくれて、
「自分が産んだような気持ちになった。」
と、初孫の誕生をほんとに喜んでくれた母。
息子の成長を誰よりも楽しみにしていたのは母だろう。
それなのに。
遠く離れた母に、余計な心配をさせてしまった。
私を励ましながら、母はどれだけ泣いたのだろう。
病院では、“支援係”なる人に呼び出され、今までの状況についてなど、色々質問をされた。
「たぶん虐待かどうかの調査だよ」
と旦那が言っていた。
こんなに息子が苦しんでいるのに、なんて悲しい疑いをされるのだ。
脳出血なんかの事例では、必ずこういった調査があるらしいが。
息子は相変わらずぼーっとして過ごし、痙攣もない。
絶食で真っ黒になった便も、もう出なくなった。
3日目、ようやく一般病棟に戻ることになった。
その後一ヶ月は毎日落ち着かずに過ごし、一ヶ月後に脳腫瘍の可能性を疑われ転院することになる。
結果、脳出血は誤診だったわけだが、
息子を失うかもしれない恐怖と共に過ごした、私にとって悪夢のような一ヶ月だった。
あの一ヶ月があるから思う。
当たり前だと思っていたことは決して当たり前じゃなく、
生きるということは、それだけで奇跡。
息子にとっては難病と闘う人生がこれからずっと続いていくわけだけど、
私が出来ることは、息子の笑顔を守っていくこと。
辛い、くるしい、悲しい、
それは全部自分自身の心が決めること。
楽しさもうれしさも幸せもしかり。
難病だから不幸だろうとと他人に言われようと、
私たちは幸せだ!と心から言ってやる。
人よりあらかじめ背負わされる苦しみの数が多いなら、それに勝る愛で埋めよう。
息子がいつでも幸せだと思えるように。
可能性の話をすれば、息子の将来は、脳にも身体にも障害が残る可能性は高いだろう。
悪く言えば、どこまで生きられるかも分からない。
けど、悪い思考はどこまでもいってもきりがない。
それは普通に産まれた子でも一緒だろう。
なにをするわけでもない、普通に過ごそう。
強がりの泣き虫で、適当О型なかーちゃと、声がでかくて熱血で、嘘のつけないとーちゃんで、毎日楽しく過ごそう。
息子が運んできてくれた、素晴らしい人生に感謝しよう。