「私は自分のことをとても可愛いと思っている。

 

 でも一方で、世間一般的な美の基準から考えたときに

 大した美人ではないことも理解している。

 

 それでも、

 やっぱり私は自分のことをとても可愛いと思っている。」

 

 

 

この状態になるまで、たくさんの紆余曲折があった。

 

今日はそんな話をしたい。

 

 

マッチングアプリのペアーズで出会い、

結婚した私にとって

夫さんが私を見つけてくれた理由は

「私の写真」が彼の目に留まったから、である。

 

その写真というのは、

うすいピンクのワンピースを着て

にこやかに微笑んでいる私の自撮りなのだが、

この写真が彼の目に留まらなければ、

私たちは永遠に出会うこともなかったのかもしれない。

(それでも彼は「違う方法でも僕は見つけたもん」と言い張るのだが)

 

なので、いまだにその写真は私にとってお気に入りで、

スマホを機種変しても、いつでもちゃんと取り出せるところにデータを置いてある。

 

そして同じく、マッチングアプリで夫さんが使っていたプロフィール写真も

私はちゃんと保存してある。

その写真を見ると、思い出すから。

まだ恋が始まる前の、儚さと尊さでキラキラした感情を。

 

 

さて、人生を遡ろう。

誰もが小さい頃は、全力の笑顔をカメラに向けていたのだと思う。

 

それから成長し、いつ頃か

カメラを避けるようになった。

 

私は中学・高校のときの写真がほとんどない。

 

イベント時に撮影した写真を、ちゃんと現像してくれて

袋に入れてプレゼントしてくれるマメな友人が何人もいたのだが、

大変申し訳ないことに、それらの写真はほとんど捨ててしまっていた。

 

自分の写真をまともにちゃんと見るのが苦手だった。

 

鏡は見れる。

 

鏡は見れるのだ。

いつも自分が見ている鏡像で、無意識のうちに一番良い表情をして、

脳が勝手に補正してくれる。

その自分ならまだいいのだが、

写真は残酷だった。「真実」が写っている。

 

「周りの人から見た私」としては写真に写っているものが「真実」なのである。

 

「自分から見た私」と「周りから見た私」は違う。

 

 

まあ人間の成長段階としてはきっと重要なことなのだろうけど、

私は、「自分から見た私」の世界で生きていたのに

思春期を迎え、「周りから見た私」を意識するようになって、

その真実に目をつぶりたくなった。

 

 

幸か不幸か私は中学高校は女子校に通っていた。

直接的な異性の目はないものの、

同性ばかりの中で、似たような属性の人たちの中で、

皆が必死にもがいて自分のアイデンティティーを見出そうとしていた。

 

学生時代に戻りたいという人はいっぱいいるけれど、

私はあのときのような、不安定な自意識の時代に戻る勇気は全くない。

 

冬になると皆コートを着るが、

多くの友人が紺色のピーコートを着ている中で

私は兄弟のおさがりである黒いダッフルコートを着ていた。

今思えばそのダッフルコートはとても上質で温かくて

そしてとても可愛いものだったが、

当時の私にはどうしても皆が来ているピーコートが良くて、

ダッフルコートがとてもダサいものに思えていたことを今でもよく覚えている。

 

今となれば、そんなことは一切気にならないのに。

誰が何を着ていようが、私が何を着ていようが、

全然気にならないのに、当時はそういうちょっとしたことが、

本当にちょっとしたことが気になって仕方なかった。

まあ一言で言ってしまえばこれが思春期なのだろうけど。

 

でもきっと、「見た目に関するコンプレックス」は

そんな一言で片づけられるようなものではなく

思春期と呼ばれる年齢が終わり、大人になれば誰もが自然に克服できるものかと言えば、

そうでもないと私は思う。

 

 

どこかでちゃんと向き合って、

「自分から見た私」と「周りから見た私」のズレを認めて

そのどちらをも腹に落とし込むような工程が必要なのだと私は思っている。

 

 

見た目に関するコンプレックスと言えば、

小さな頃から色々あったと思い出す。

 

片目は二重なのに、もう片目は一重なこと

小学生後半から始まったニキビ肌

中学生から髪質が変わりうねり出した癖っ毛

あがり症ですぐ赤くなる顔

スレンダー過ぎる体型

他にも言い出せば切りがないほど色々…

 

誰しもそういったコンプレックスを持っているのだと思う。

どんなに綺麗な人であっても。

 

ただ、私が幸福だったことは

それらとしっかり向き合ってこれたことだと思う。

 

そしてそれら一つずつを解消したり、

「これでいい」と思えるようになったりして、

今こうしてブログに書けるまでになった。

 

 

 

ここからは、「良いか悪いか」は分からない。

分からないけど、

なぜ私がちゃんと向き合ってこれたかを書こうと思う。

 

それは、「恋愛」があったからだ。

もっと具体的に言うと、

そういったコンプレックスを「可愛いね」と言ってくれる存在があったからだ。

 

大学で心理学部を学んでいた私は、

「アイデンティティのための恋愛」という考え方を知った。

これは、青年期においてアイデンティティがまだ未熟なときに

他者からの評価によってアイデンティティを確立しようとする、

そのために恋愛が用いられる、という考え方で

まあつまり、恋人に認めてもらうことで「私は私だ!」と思えるようになること。

 

そのとき学んだ内容としては、アイデンティティのための恋愛は、まだ恋愛の中では初歩的な段階で、

その後アイデンティティが確立してからする恋愛のこそが本当の愛だ、というようなことでした。

(記憶曖昧なため、私なりの解釈が入っていると思いますあしからず)

 

なので、大学生の私としてはどちらかと言うと、「アイデンティティのための恋愛」を「あまり良くないもの」捉えた。

 

 

ただ、ただね。

今、一応大人と言われる年齢に成長してから思うのは、

この「アイデンティティのための恋愛」こそ、すごく大事なものなのではないか、ということ。

というより、「恋愛によって確立されるアイデンティティ」をもっとポジティブなものとして捉えて良いのではないか、ということ。

 

もちろん。

もちろん、「恋人がいない私なんてダメ」という思考は勧めない。そうじゃない。

そうじゃなくて。

 

生まれ育った家族とは違う、お互いの意思だけで関係を築いた「恋愛相手」が、

「自分の存在を認めてくれること」は良いことであろうが悪いことであろうが

とにかく、とにかくやっぱりすごく幸せなことで、

きっと私だけではなく、きっと多くの人にとって、その幸せなインパクトは熱烈で。

 

だからこそ、世の中には恋愛を取り巻く色々な欲があって。

 

 

私の好きな名言で、

「恋愛を一度もしなかった女はたびたび見つかるものだが、恋愛を一度しかしない女はめったに見つからない」

というのがある。

 

私はこの言葉を

「恋愛というのが本当に素晴らしいものだから、一度でもその幸福感を知ってしまったら、それっきりではいられない。また欲しいと思っていまう。」

という意味に理解している。

 

 

そして、それらを踏まえて私は、

恋愛をすごくポジティブに認識していて、

アイデンティティ確立のために、すごく重要で、ある意味便利な存在なのだと思っているのだ。

 

アイデンティティのために恋愛を利用することは決して恥じることではなく、

それどころか、アイデンティティのためにどんどん恋愛していこうよ、

恋愛で得られる感情を糧にして、どんどん自分を好きになろうよ、

という世界観で生きている。

 

 

 

すごく話がそれた気がするが、

学問的なうんちゃらは置いておいて、

私が理想としているのは、今述べたような「恋愛観」である。

 

用法容量は守る必要があるが、

その上でしっかり用いれば、

これほどに自分を好きになれるイベントは人生にそうそうないのではないかと思ってしまう。

(もちろん、仕事や趣味でも自分を好きになれるイベントはあるが、恋愛のそれは私にとってはちょっと種類が違う。)

 

 

だから結論としては私はこれまでの自分の恋愛に感謝しているし、

今夫さんがスッピンの私を可愛い可愛いと言ってくれることや、

明らかなスレンダーボディを見ても「ボンキュッボンや!」と言ってくれる(彼の目がおかしいのか願望なのかギャグなのかは未だに分からない)ことを、

私は心からありがたく思っていて、

もちろんそれがない人生になっても、私は私を好きでいる自信があるけれど、

恋愛がある人生だから、もっともっと豊かに私を愛せる毎日なのだと感じている。

 

 

でね。

じゃあどうすればいいか、っていう話に入るわけですが、

結論から言うと

「にわとりたまご」だと思っていて。

 

にわとりたまご、というのは

この世に先に存在したのはにわとり?たまご?という議論。

 

たまごがないとにわとりは生まれないし、

にわとりがないとたまごは生まれないし、

どっちが先にあったのか?とグルグルする議論。

 

 

「自分のことを可愛いと思えること」と

「恋愛において誰かが可愛いと言ってくれること」

 

私にとってはこの二つは密接に関わっている。

やっぱり毎日可愛いと言ってくれる人がいると自分のことを可愛いとより思えるし、

そもそも恋愛がうまくいっているのは、多少なりとも自分のことを可愛いと思えるようなメンタルだったからとも言える。

 

相乗効果だ。少しずつ、両方を増やしていくように、小さなところから始めて、正のスパイラルを巻き起こすイメージだ。

(伝わりますかね?)

 

 

とは言え、まあ、

どっちが取り組み始めやすいかと言えばやっぱり

「自分のことを可愛いと思えること」だと思う。

 

この事象事態は相手がなくても実現できることだから、

まずはどんなにちょっとでもいいから、「自分のことを可愛いと思える」能力を向上させていきたい。

 

 

そのためには、もう

「見た目を変えていく」ことが一番手っ取り早いと思う。

 

自分がもっと自分を好きになれるような方向に、

見た目を進化させていくこと。

 

世間一般の「美」に近づけなくてはならない、ということはないし、

インスタとかに溢れる「ザ・キラキラ美人」のようにまでならなければならない、ということもない。

 

「自分自身が」「少しでも」「自分のことを好きに」なれるようになることが、

私にとっての「見た目を変化させる目的」である。

 

 

だって、他人との比較や他人の評価軸に目的を置いたら、

それは恐らく地獄の入り口だから。

 

地球に何十億人もいる「他人」や、自分の意思とは無関係に変わりゆく「他人の評価軸」に判断を絡めてしまったら、

自分の努力ではどうにもできない範囲が広くなりすぎて、私たちは無気力感を味わい、立ち上がれなくなるだろう。

 

 

だから、だからあくまでも

「過去の自分」と比べて「自分が好きと思えること」を評価軸に、

私たちは可愛くなるのがいいと思う。

 

 

そうして、少しでも「私って可愛い」と思えたら、

それが恋愛をうまくいかせるエッセンスになると思う。

 

そうして、恋愛がうまくいって、自分を認めてくれる人がいると

より「私って可愛い」と思えるようになる。

 

そうしてより恋愛が・・・というスパイラルが始まる。

 

これを、「可愛い私のスパイラル」と呼びたい。

 

 

 

さて、冒頭に戻る。

 

「私は自分のことをとても可愛いと思っている。

 

 でも一方で、世間一般的な美の基準から考えたときに

 大した美人ではないことも理解している。

 

 それでも、

 やっぱり私は自分のことをとても可愛いと思っている。」

 

 

可愛い私のスパイラルを長年繰り返した末に、

このマインドまでたどり着いた。

 

「世間一般的な美の基準から考えたときに大した美人ではないことも理解している」というのは、

「相対的な美」と「絶対的な美」の違いを認識しているということ。

 

ミスコンで1位になることとは相対的な美だが、

「私って世界一可愛い」と心の中で思っていることは絶対的な美である。

 

両方の美の基準があることを分かった上で、私は今日も

「私って世界一可愛いわ」と自分のことを抱きしめてあげたいと思っている。

 

そして、それを一緒にやってくれるパートナーがいると、

本当に心が丸く温かくなることを感じる。

 

 

で、最後に。

これまで私は「可愛い私のスパイラル」の入り口として

「自分の見た目を変えること」に取り組んできたわけですが、

このことを体系的に学びたいと思っている今日この頃。

 

たくさん情報を取り込んで、自分なりに落とし込んで自分のものにしてきたものの、

世の中にはちゃんとそれを体系だって学べる環境が作られている。

「可愛い私のスパイラル」を巻き起こすための最初の一歩を、

的確に踏み出すための知識とスキルを身に着けたい。

 

そうしたらきっと私はもっとちゃんと実践的な「婚活天使」になれると思うから。

 

 

今日はここまで。

また書きますね。

 

てぃんくす