(前回からの続き) 小林さんの本の中に「人間の建設」という数学者の岡潔さんとの対談を扱ったものがある。それを読んで、岡さんの言われていることに、これまたとても惹かれた。目から鱗が落ちるというかとても新鮮が気持ちになった記憶がある。

  大学生の頃、実家に帰省先の実家から大学に戻る際、車中の時間をつぶすのに本でも買って読んでいこうと思い、駅のキオスクをのぞくと岡さんの「春宵十話」という小さいがかなりぶ厚い本があった。こんなところに、こんなものがという感じで驚いた。早速買って、今は手元にないが、以降十数年、ボロボロになるまでよく読んだ。私の記憶では、「自然の中に自分がいるのではなく、自分の心のなかに自然がある、小我を自分と思うのは迷いで、本当の自分はもっと違ったもの(岡さんは明確にこういうものと言っていたと思うが、その内容をうまく私は整理できてないので曖昧にしておく)」といった考えがあの本の基調になっていたと思う。岡さんは著書の中で、過去の思想家や芸術家にしばしば言及され、また、文章も引用されていたが、道元禅師の正法眼蔵からもよく引用されていた。

 そういうところで,短い文章ではあるが,正法眼蔵に触れ,なにか惹かれるものがあったのだろう。それから十数年して,岩波文庫の水野弥穂子(みずのやおこ)校注  正法眼蔵(全4冊)を買って、2冊目まではなんとか読んだように思う。当時,コンピュータは持っていたが,インターネット回線をひいていなかったので,意味のわからない用語の意味を調べるのは止めて,とにかく読むだけ読んで雰囲気だけでも知ろうというお粗末なものだった。何が書かれているのか内容はほとんどわからなかった。読後は「なにか難しい西洋の哲学書の様だなあ,道元禅師は思考に思考を重ね,もうこれ以上考えられないというところまで頭をふりしぼったのだろうなあ」という印象を持った。

  読んだ事で,座禅をするようになった訳でもなし,日常の生活に何か変化をもたらした訳ではなかった。それはそうだろう。もっと身を入れて,心を入れて読まないと道元禅師の思想に触れることはできない。

  そんなこんなで,今 禅師の教えが少しでも,私の血肉骨髄になればと正法眼蔵を読んでいる次第だ。