モズ ♂
読書中の伊藤正德「日本陸軍の最後」(決闘篇)に、「ラバウルを見捨てる」という題名の章がある。本件は過去にも何度か話題にしているのだが、本書に初耳のエピソードがあるので、改めて記事一回分を割こう。
著者は昭和十八年(1943年)9月に定められた所謂「絶対国防圏」の構想は、一年遅かったと強調している。前年の後半にはすでにニューギニアでは南海支隊が、ガダルカナルでは第十七軍の陸兵が飢え始めている。兵站線が伸びきっている。守れない。
昭和十七年の11月、陸軍の第八方面軍がラバウルに進出したが、連合艦隊の機動部隊は息が切れて本土に戻っている。ニューギニアは第十八軍の進出が容易ではなくなってきた。この時点で日米の工業分野における生産力と技術力の大差について、戦争指導者はどのような見解をもっていたのだろう。
すくなくとも敵の進出速度については、見通しが甘かった。絶対国防圏の要城であるサイパンやホーランジアの軍備もほとんど進んでいない。ではラバウルはどうだったのか、改めて本書で概要を確認する。
ラバウルはビスマーク諸島のニューブリテン島の北東端にある。この島の西端がダンピール海峡に面している。米軍はダンピール海峡方面をマッカーサーが担当し、一方でラバウル方面はニミッツの航空部隊が、昭和十七年秋ごろから空襲を強化した。
明けて昭和十八年(1943年)の2月17日、ラバウルの後方、トラックの日本軍基地がアメリカ軌道艦隊による大空襲を受けた。「沈没軍艦9、同船舶34、飛行機撃破270
機」の大損害を蒙った。軍はラバウルの全航空部隊を、トラックに転用することに決めた。現代仮名遣いで引用する。
かつて艦船三十万トンを湾内に欠かしたことがなく、五個の飛行場からは常時有力空軍が飛び立ち、街に三千の家屋が立ち並んだラバウルは、昭和十九年二月と共に表面廃墟と化し去った。
ノスリ
著者が「表面」という言葉を使ったのには訳がある。陸海軍は地下に潜った。陸の第八方面軍(長、今井均中将)および海の南東方面艦隊(長、草加任一中将)は、総計十一万余の将兵が地下に大要塞を構築した。
さらに、どこを耕したのか書かれていないが、「完全なる耕作をして、全軍の自活」ができるようになった。しかし周知のとおり米軍はラバウルを攻めずに通過し、より西方にあるアドミラルティ諸島を攻略してきた。
問題はその先に起きた。絶対国防圏構想の下、大本営は第八方面軍に対し、その圏外のラバウルから撤退し、圏内の豪北ハルマヘラの辺りに移設させようとした。相手は手ごわい。今村将軍は「形を改めて拒否の態度を表明」した。
今井によればラバウル十万の将兵は、敵軍の北進を少しでも長くこの地で食い止め、敵の勢力を減殺し、日本の防衛にあたるべく一致団結して戦っている。それに北隣のソロモン諸島ブーゲンビル島では、第十七軍の第六師団も悪戦苦闘しているのだ。
見捨てる訳にはいかない。しかし現実問題として、第八方面軍は南方ニューギニア島の第一線で苦戦中の第十八軍との連絡が途絶しており、指揮命令も支援もできない。このため今村司令官は西ニューギニア方面に、新たに方面軍を組成し同地域の指揮に当たらせてはどうかと進言した。
こうして昭和十九年(1944年)3月、第二方面軍が新設された。司令部はセレベス島(現インドネシア国スラウェシ島)のメナドに置く。司令官は阿南惟幾大将。参謀長に沼田多稼蔵中将。
かくてニューギニアの第十八軍(長、安達二十三中将)は、現在東ニューギニアのメナドを司令部の本拠地としていたが、その場で組織上、第八方面軍の指揮を離れ、新設の第二方面軍の隷下へと移った。第二方面軍は第十八軍に対し、東のメナドから西のホーランジアへ進出するよう命じた。
マダンとホーランジアは1,000㎞の隔たりがあり(東京-下関間)、しかもその途上に車道はなく、すでに乱戦とサラワケット越えなどの行軍が続いて疲労困憊の三コ師団だが、マッカーサー軍の侵攻近しとみて、さらなる長距離移動を強いられることになった。
(つづく)
雪の寛永寺 根本中堂 (2026年2月8日撮影)
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