クロツラヘラサギ(食事中)とコサギ(飛翔中)
前回の第四十一師団に続き、今回は第十八軍のもう一方の主力、第二十師団についての戦史叢書の記述を要約する。「三宅部隊のアフア攻撃」という項がある。指揮官は第二十歩兵団長の三宅貞光陸軍少将。
二十師の場合、昭和十九年(1944年)7月10日の攻撃開始当初から、右翼に歩兵八十連隊ほか、左翼に歩兵七十八連隊ほかをぞれぞれ配置し(ほかというのは工兵隊と救護班)、両者を三宅兵団長が率いた。
渡河した日本軍の退路を米軍が断ち切った7月14日から15日ごろにかけて、師団司令部と三宅部隊の間の「通信連絡が極めて困難」となった。ところが三宅部隊はそれどころか、糧秣が欠乏するという深刻な事態に陥っていた。引用する。
部隊は十七日以降一粒の米麦なく、わずかに、付近のジャングル蕗(ふき)と名付けた、土人も食料とはしない野草の類や木の実を食し、連日の降雨にたたかれ、機動、戦闘を繰り返しているので将兵の疲労は、その極に達しつつあった。
それでも7月18日薄暮、歩七八の第三大隊および歩八〇の第二大隊は、アフアの米軍に対する攻撃を開始した。日本軍には敵情報が不足していたと戦史叢書にあるが、米軍はアフアに騎兵隊も含む兵力増強を行っている。攻撃は失敗した。
この7月18日に、第二十師団はそれまで指揮所を置いていた三五高地から前進し、坂東河左岸、アフアの南約三キロの地点に進出し、また、後方にあった第七十九連隊もアフアに向かわせた。後段に要図を載せる。
この続きに「高砂義勇隊」の話題が登場する。この件につき先日、ブログ師匠より関連書籍を紹介いただいたのだが、ネットで古書店に注文したその書籍がまだ拙宅に届かぬうちに該当箇所まで来てしまった。その読書後に稿を改めて論じたい。
現時点でわずかに知り得た範囲で述べると、高砂族というのは単一の民族名ではなく複数の台湾原住民族の総称で、しかも日清戦争で台湾が清国から割譲された後に、日本がつけた名称である。国立公文書館の「アジ歴」サイトより。
拙ブログでも、これまで何度か高砂族の名に触れているが、おそらくどれも個人の手記が出典だったような覚えがあり、賛辞にあふれている。われわれは借りを返しているのだろうか。NHKのアーカイブスの紹介に続き、戦史叢書から青字で転載する。
なお第二十師団長は、齋藤大尉の指揮する高砂義勇隊約四十名を、七月中旬から坂東河中流を経てアイタペ方面に向かって進出させた。
この捜索隊は主として山脚付近を隠密に前進し、チナベリ付近を経てアイタペの近くまで挺身潜入し、同地飛行場や米軍複郭陣地帯(主陣地)の状況と同方面の地形、河川の状況等を詳細に偵察し、七月二十三日に師団戦闘指令所に帰還した。
同義勇隊はその後、司令部の警戒、捜索、連絡その他、現地物資の収集等にあたり、良くその特性を発揮した。
この引用部分の出典は「第二十師団作戦経過要報」とあるから、軍の正式な資料だろう。アイタペの飛行場まで調べたらしい。義勇隊が正規軍より兵糧に恵まれていたとは到底思えないが、一体どうやって従軍していたのだろう。
二年前の12月にガダルカナルの挺身隊が活躍したときには本土で絵本まで出たらしい。マリアナや沖縄で同胞民間人の義勇軍が組成された件は、史料に詳しい。それと比べて本件はあまりに影が薄いと戦史叢書も考えたか。
上図二点は戦史叢書の付録(上)およびその左上部分の拡大図(下)である。三五高地やアフアからアイタペまで、図面の直線距離で片道40kmくらいありそうだ。感状や勲章は出されたか。それより、その後の彼らはどうなった?
挺身隊が師団に戻った7月23日は、軍司令部が二十師の戦力を「僅少」と見切りをつけて、四十一師に転進を命じた26日の三日前にあたる。貴重で豊富な最新の敵情報も、肝心な主力両師団が食うものなしの状況では活かしようがないではないか。
(おわり)
合歓の花 (2026年6月16日撮影)
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