我が君を考へつゞけて歩きつゞけて 鎌倉編 | wish of love

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我が君を考へつゞけて歩きつゞけて その8 生田の森
我が君を考へつゞけて歩きつゞけて その8 番外編

今回の鎌倉行きは
平重衡が須磨寺で生け捕りにされその後鎌倉に送られた後の足跡を追う旅でした。

訪問先は2箇所
1.重衡卿が約1年間の幽閉生活を送った頼朝の部下狩野宗茂の屋敷跡と思われる
 現 教恩寺
 重衡卿が頼朝から賜った持仏の阿弥陀如来像様がご本尊として安置されています

2.源頼朝の御所だった大倉御所跡
 現在何も残ってはおらず、東西南、御所跡の石碑のみが建てられています
なんのことはない。
重衡卿が鎌倉についてしばらくはこちらに滞在したという理由だけで訪れました。


宿泊先の東京赤坂のホテルから電車を乗り継ぎ約1時間かけてJR鎌倉駅に到着
真っ先に教恩寺さんへ

【教恩寺】
鎌倉観音巡礼第12番札所(聖観世音)
本尊 阿弥陀如来三尊
所在地: 神奈川県鎌倉市大町 1ー4ー29
アクセス: JR鎌倉駅 徒歩10分


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ここは重衡卿が捕えられ鎌倉に来て頼朝の住む大倉御所から
狩野宗茂に預けられたという記述から推測して
狩野宗茂の屋敷のあった場所と思われます。

と言っても狩野宗茂は伊豆の武士ですから鎌倉での仮の屋敷または
重衡卿を幽閉するために用意した屋敷ではないdかと勝手に考えてます。

【吾妻鏡】
1184年 (元暦元年 甲辰)

4月20日 戊子 雨降る。終日休止せず。
本三位中将、武衛の御免に依って沐浴の儀有り。その後秉燭の期に及び、徒然を慰めんが為と称し、
籐判官代邦通・工藤一臈祐経、並びに官女一人(千手前と号す)等を羽林の方に遣わさる。
剰え竹葉上林已下を副え送らる。
羽林殊に喜悦し、遊興刻を移す。祐経鼓を打ち今様を歌う。
女房琵琶を弾き、羽林横笛を和す。先ず五常楽を吹く。
下官の為には、これを以て後生楽と為すべきの由これを称す。次いで皇ショウ急を吹く。
往生急と謂う。凡そ事に於いて興を催さざると云うこと莫し。
夜半に及び女房帰らんと欲す。羽林暫くこれを抑留し、盃を與え朗詠に及ぶ。
燭暗くすは数行虞氏の涙、夜深けては四面楚歌の声と。その後各々御前に帰参す。
武衛酒宴の次第を問わしめ給う。
邦通申して云く、羽林は、言語と云い芸能と云い、尤も以て優美なり。五常楽を以て後生楽と謂い、
皇ショウ急を以て往生急と号す。これ皆その由有らんか。楽名の中、廻忽と云うは元廻骨と書く。
大国葬礼の時この楽を調ぶと。吾囚人として誅せらるるを待つの條、存在旦暮の由が故か。
また女房帰らんと欲するの程、猶四面楚歌の句を詠じ、彼の項羽過異の事、
折節思い出すかの由これを申す。武衛殊に事の躰を感ぜしめ給う。
世上の聞こえを憚るに依って、吾その座に臨まず。恨みたるの由仰せらると。
武衛また宿衣一領を千手前に持たしめ、更に送り遣わさる。
その上祐経を以て辺鄙の士女還ってその興有るべきか。
御在国の程、召し置かるべきの由これを仰せらる。祐経頻りに羽林を憐む。
これ往年小松内府に候すの時、常にこの羽林を見るの間、今に旧好を忘れざるか。


  注:羽林というのは重衡卿のことです


【平家物語 千手 <寿永三年> 】

されども狩野介、情けある者にて、いたうきびしうもあたり奉らず、やうやうにいたはり、
湯殿しつらひなどして、御湯ひかせ奉る。
 道すがらの汗いぶせかりければ、身を清めて失はんずるにこそと思はれけるに、
齢二十ばかんなる女房の、色白う清げにて、まことに優にうつくしきが、
目結の帷子に染付けの湯巻して、湯殿の戸押しあけて参りたり。
またしばしあつて、十四五ばかりなる女童の、こむらごの帷子着て、髪は衵長なるが、
楾盥に櫛入れて持つて参りたり。
この女房介錯にて、やや久しうあみ、髪洗ひなどして、あがり給ひぬ。

さてかの女房暇申して出でけるが、「男などはこちなうもぞ思し召す。
なかなか女房は苦しからじとて、参らせられて候ふ。
『何事でも思し召さん事をば、承つて申せ』とこそ、兵衛佐殿は仰せ候ひつれ。」

中将、「いまはこれほどの身になつて、何事をか思ふべき。ただ思ふ事とては、出家ぞしたき」と宣ひければ、
かへり参つて、兵衛佐殿にこの由を申す。
兵衛佐殿、「それは思ひも寄らず。頼朝が私の敵ならばこそ。朝敵として預かり奉たる人なり。
ゆめゆめあるべうもなし」とぞ宣ひける。

三位中将、守護の武士に宣ひけるは、「さてもただ今の女房は、優なりつるものかな。
名をば何といふやらん」と問はれければ、「あれは手越の長者が娘で候ふを、みめかたち、心ざま、
優にわりなき者で候ふとて、この二三年召し使はれ候ふが、名をば千手前と申し候ふ」とぞ申しける。

 その夕べ雨少し降つて、よろづものさびしかりけるに、件の女房、琵琶、琴持たせて参りたり。
狩野介、酒を勧め奉る。我が身も家の子郎等等十余人ひき具して参り、御前近う候ひけり。

千手前、酌をとる。三位中将少しうけて、いと興なげにておはしけるを、狩野介申しけるは、
「かつ聞こし召されてもや候ふらん。
鎌倉殿の『相構へてよくよくなぐさめ参らせよ。懈怠にて、頼朝恨むな』と仰せられ候ふ。
宗茂は、もと伊豆国の者にて候ふ間、鎌倉では旅にて候へども心の及び候はんほどは、
奉公つかまつり候ふべし。
何事でも申して、すすめ参らせ給へ」と申しければ、千手前、酌さしおいて、
「羅綺の重衣たる情ない事を機婦に妬む」といふ朗詠を一両反したりければ、
三位中将、「この朗詠せん人をば北野の天神一日に三度かけつてまぼらんと誓はせ給ふなり。
されども重衡は、今生にては捨てられ給ひぬ。助音しても何かせん。
罪障かろみぬべき事ならば、従ふべし」と宣へば、千手前やがて、「十悪といへども引摂す」といふ朗詠をして、
「極楽願はん人は、皆弥陀の名号を唱ふべし」といふ今様を四五へん歌ひすましたりければ、
その時盃を傾けらる。
千手前給はつて狩野介にさす。宗茂が飲む時に、琴をぞ弾きすましたる。

 三位の中将宣ひけるは、「この楽をば普通は五常楽といへども、いま重衡がためには、
後生楽とこそ観ずべけれ。
やがて往生の急をひかん」とたはぶれて、琵琶をとり、転手をねぢて、皇の急をぞ弾かれける。
夜もやうやう更けて、よろづ心のすむままに、
「あな思はずや、あづまにもこれほど優なる人のありけるよ。何事にても今一声」と宣へば、
千手前また、
「一樹のかげに宿りあひ、同じ流れを掬ぶも、皆これ先世の契り」といふ白拍子をまことにおもしろく数へすましたりければ、中将も、「灯闇うしては、数行虞氏が涙」といふ朗詠をぞせられける。

たとへばこの朗詠の心は、昔唐土に漢の高祖と楚の項羽と位を争ひて、合戦する事七十二度、
戦ひごとに項羽勝ちにけり。
されどもつひには、項羽戦ひ負けて滅びける時、騅といふ馬の一日に千里を飛ぶに乗つて、
虞氏といふ后とともに逃げ去らんとしけるに、馬いかが思ひけん、足をととのへて働かず。

項羽涙を流いて、
「我が威勢すでに廃れたり。今は逃るべき方なし。敵の襲ふは事の数ならず。
この后に別れなん事の悲しさよ」とて、夜もすがら歎き悲しみ給ひけり。

灯火くらうなりければ、心細うて虞氏涙を流す。夜ふくるままに軍兵四面に鬨を作る。
この心を橘相公の賦に作れるを、三位中将思ひ出でられたりしにや、いとやさしうぞ聞こえける。
 さるほどに夜も明けければ、武士ども暇申してまかりいづ。
千手前も帰りにけり。

その朝、兵衛佐殿、折節持仏堂に法華経ようでおはしける所へ、千手前参りたり。
佐殿うち笑み給ひて、千手に「中人をば面白うしたるものを」と宣へば、斎院の次官親義、
折節御前に物かいて候ひけるが、「何事で候ふやらん」と申す。

「あの平家の人々は、弓箭のほかは他事なしとこそ、日ごろは思ひたれば、
この三位中将の琵琶の撥音、口づさみ、夜もすがらたち聞いて候ふに、
優にわりなき人にておはしけり。」
親義申しけるは、「誰も夜べ承るべう候ひしが、折節いたはる事候うて、承らず候ふ。
この後は常にたち聞き候ふべし。平家はもとより代々の歌人、才人達で候ふなり。
先年この人々を花にたとへ候ひしに、この三位中将をば、牡丹の花に譬へて候ひしぞかし」と申されければ、
「まことに優なる人にてありけり」とて、琵琶の撥音、朗詠のやう、
後までも有り難き事にぞ宣ひける。千手前はなかなかに物思ひの種とやなりにけん。
されば中将南都へ渡されて、斬られ給ひぬと聞こえしかば、やがて様をかへ、
濃き墨染めにやつれはて、信濃国、善光寺に行ひすまして、
かの後世菩提をとぶらひ、我が身も往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。



(改行超適当ですみません・・・・夜中だし)





吾妻鏡や平家物語から
有名な千手との出会いの場面が大倉御所なのか狩野宗茂の屋敷なのか
自分には判断をつけられないのですが、
後者のほうがしっくりと来るような気がしています。

まあ、
歴史学者じゃないので好きな方でいいと思ってたりするのですが。
千手との出会いは鎌倉到着の12日後。
宗茂が重衡卿のために湯殿を用意して千手登場となるので
この教恩寺がその場所だったと思いたいかな(;´▽`A``

因みに自分千手好きじゃありません・・・・・・・・多分、嫉妬?ココ
北の方は非常に尊敬しているのですが。
なんでしょうね?
女の複雑な感情wwwww


長くなりましたが、
教恩寺さんのご本尊は木津の安福寺さん同様一般公開はされていませんので
事前に電話で連絡をして伺いました。
(雨天拝観禁止という情報もあったので天気予報とにらめっこで・・・)

坊守さんが暖かく迎えて下さり、
意外にも重衡話でひとしきり盛り上がりました。
ご住職が平家の落人の里の出身で教恩寺を守ることになり因縁を感じていらっしゃるとか、
日野や木津の話
そして来年の大河の話など・・・。

御本尊様は運慶作と言われ
両脇に侍菩薩像を従えた繊細な阿弥陀三尊像です。
阿弥陀様の目には玉が埋め込まれていて仏像などあまりわからない自分が見ても
大変に繊細なものでした。

図々しくも間近に寄って拝ませていただき
涙が出るほどに感激!

きっと重衡卿は鎌倉にいる間
この阿弥陀様に深く帰依して祈られたのだろうなぁ~~と感慨あせる


明日6/23日は重衡卿の命日にあたります。
冬に訪れた木津の安福寺さんでは八百弐拾七回忌の法要が営まれることでしょう。
命日を控え今回の旅をまとめることができて本当によかった。
(・・・っておいおい!大倉御所は?)

                 
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                                   合掌