体の上に乗っかってる私というものが詰まっているこの頭。
コンピュータのハードとソフトの関係ですね。
互いの存在がなければ機能しないのです。

体はしんどいと頭に毒を出します。
頭はこれがイヤで体への命令を緩める努力をします。
こんなやり取りが続けられているのです。

近年、人は肉体的な重労働から解放されつつありますが、これも肉体の企みです。
出来るだけ体も楽をしたいですからね。

ただ、これも度が過ぎると逆効果なところもあります。
心臓が全ての血行を動かしている訳ではありません。
腕や足の筋肉も血行ポンプの役割を持っているのです。
全く動かないのも循環が滞り不健康なのです。

最近ではマラソンやジョギングなどのスポーツが流行っていますが、
まー結果的には体も健康になるのであればそれはそれはで良いのです。
しかし度を越してはダメです。

人は何かのために生きると言われますが、逆に言えば簡単に死なないようにコントロールされているとも言えます。
このコントロールは体と心の相互間でけん制され続けていて、抜き差しならない状態に追い込まれているのです。
だから何のために生きるではなく、死ねないから生きるが正しいかもしれません。

体とはどこまでのことか?
これは実は大きな問題です。
自己認識の問題ですね。

人は呼吸しなければ生きられませんが、そうすると体の回りにあるこの空気も体の一部だと言えます。
体の肺とそこに流れ込む空気は、連続的に接続されてた一体的なものとして考えることも出来ます。

もちろん水や食べ物もそうなります。
肉となる牛や豚やニワトリ達とも、そのエサなるものや、その食べ物を作り出す大地や環境全てが私達の体の一部なのです。
究極はこの宇宙全体が全て連続体とも言えます。
「汝隣人を愛するがごとく汝を愛せよ」言われるまでもなく当たり前の話ですね。

そう考えると環境問題なんて議論する余地は全くないのです。
答えは分かっていますよね。

昔はそんなことは当たり前に分かっていたのです。
だからさほど問題にもならなかったのです。
でも今の世の中、仕事の分業化や社会全体が複雑化したおかげで、そんなことも分からなくなっている人が多くなりました。

人の考えは、物理的にどこに置かれるかで大きく変ってきます。
将棋のコマのようなもので単純で分かりやすいのです。

物事を小さく見るか大きく見るか、それが人の器でしょう。
でもそれは単に今立っている場所の問題なのかもしれません。

部屋から外に出て、空の下でまず考えましょう。
出来れば少し上空に飛び上がってそこから見下ろしてみましょう。
まーどうってことないですよ。
大抵のことは・・・

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ということをふと思いながら、今日も愛犬とお山の上から春の風景を眺めていました。
春ですねー