モノを買うということの本質は、欲求を満たす行為の最も簡単な手法でもある。ただそれほどそれが安々と出来ないのは発祥の問題でもある。生まれが違えば、もっと違ったことになっていただろう。ただその場合その対象も違ってきて、また同じことの繰り返しかもしれない。ということは問題は全然解決できていないかもしれない。つまりは質の問題かもしれない。

最近では多少利口になってきて、何でもかんでも安々とは買わないという基本的なポリシーを持つようになってきた。なぜそういう派生をしたかというと、とにかく回りにモノが多すぎる状態になってきたからだ、これが半端でない。正に足踏み場も無い状態になりつつある。ただその殆どは一般的にはゴミ同然のものではあるが・・・

それにその資金源が非常に限られているとも言える。簡単に言えば稼ぎが少ないのだが。しかしテレビコマーシャルで「モノより思い出」というキーワードを聞いたことがあるが、あの言葉はかなり考えさせられる。モノがあるから思い出せることもあるが、確かに記憶というものが全ての価値に置き換えられるともいえる。

例えば高級料理店で美味しい食事をしたとすると、その金銭的対価はかなりのものになる。それで得た価値は、食事をする瞬間の美味しいという食欲を満たす行為であるが、それは一瞬である。食べ物が喉を越した頃にはそれは単純な運動エネルギーへ変換されるための栄養素というものに変換されているからだ。ただもう一つの価値も生まれる。つまりあの高級料理店で食事をしたという思い出(記憶)である。どちらかというと、こちらの価値の方が後々大きいのであろう。つまりその記憶のために支払った価値とも言える。

よく未来映画で、記憶だけを売る商売が出てくるが、なるほどある程度本質を突いている。しかしそれってかなり虚しい行為である。記憶というものはいずれ無くなるもので、儚いものであるからだ。

モノを買うという行為は、最終的にはそのモノによる作用で起きた現象を記憶することであり、その記憶を買うことなのかもしれない。それに往々にしてそのモノ自体は後々不必要なモノに変換されて、憂鬱な気分させるものである。できればその変換される時間が長いものを買いたいものである。