モノを買うということについて幼い頃の話しを書いたが、その根本的な欲求はどこにあるのだろうか?

マーケッティングリサーチの手法として、「デモグラフィック」と「サイコグラフィック」の相関関係について読んだことがある。いわく「デモグラフィック」とは人口統計学的特性であり、「サイコグラフィック」とは感性的な価値とのことだ。
なんだかややこしい言葉である。そもそもこういう話は、ビジネス用語であり「金を生む話し」なのだ。だからややこしくて当たり前、ややこしくなくては金にならないのだろう。
でもまーこれを読んでみて「そういえばそういうこともあるかも」と思ってしまう自分も情けない。

まー理論的なことはいくらでも後付けできるのだが、結局のところはよくわからない。「衝動」に至る判断が微妙でなのだ。

冷静に考えてみると「店でモノを買う」という行動は、大して自分に益のない話しも少なくない。例えば、「私は壷を買う」シーンを想像すると、

1.店先に綺麗に壷があった。
2.私はその壷の美しさに惚れ込んでその壷を買った。
3.その壷を持ち帰り玄関の棚に飾った。
4.私は、それをしげしげと眺め込んでニヤリとする。

これが、私が壷を購入するのに払ったお金の価値だとすると、その価値は「ニヤリとする」ところだけかもしれない。おそらく、その壷は一般の客には興味のない商品で、その店のショーウィンドにずっと飾られていたかもしれない。そうだとすると、その前をちょくちょく通り過ぎる私は、いつでもその壷をじっくりと眺めることが出来たはずである。何も高いお金を払って自宅の玄関に飾ることも無かったかもしれない。とすると、私の支払ったお金(価値)は、モノをA点(お店のショーウィンド)からB点(自宅玄関の棚)に移動するためだけに支払われたともいえる。

もちろんこの話は「壷」という「モノの性質がキモ」でもある。例えば「壷」が「食べ物」だったら話は変わってくるわけである。しかし、この手のモノは私の部屋にゴロゴロしている。まさに「あちゃー」な状態なのである。