ほしいモノがある。まずはその衝動の発生から始まる。
これが重要で、どれだけ強い衝動があるかがその後のエネルギーの源となる。
大概のほしいモノは、お金という対価を支払えばそれに近いものが手に入る。便利な時代である。それだけ作業分散が進んでいるとも言える。これが進化というものかも知れない。

しかしだ、その対価はそれほど安いものではないのだ。大抵は安々とは買えない。
つまりはその対価を手に入れる行為と、それを自分自身で作り出す行為との天秤にかけることになる。
私の場合、結果的に自分で作り出すことを選択する場合が多い。それだけ基本資金を作り出す仕事の効率が悪いのだろう。

「器用貧乏」とはよくいったもので、私の手先はそれほど不器用でもない。ただそれを作り出す知識レベルは大いしたこと無い。そこらの部品は貧弱である。後は欲求というエネルギーを執念というエネルギーへ変換しながら、また意地というものに置き換えながらひたすらしがみつくしかない。これがもう涙ものである。「器用貧乏」とは器用だから貧乏でもいいということではなく、貧乏だから必然的に器用になると私は理解している。

しかし、私の場合そのもともとの欲求が多すぎるのである。常に同時に数十個くらいのイベントを抱えている。一つのことを追い求めるということは滅多にない、またそれでは常に満たされないのである。常に欲求を発掘することを追い求めているのである。一つのことが済んだら次の2つを追い求めているのだから、欲求は減るどころか増える一方である。これでは質は求められないのも無理も無い。

ただ私の場合、求めるモノの基本的要素が満たされれば、それ自体完成しなくても満足できる性質を持っている。例えばモノを切る道具を作るとすると、とりあえず切れればよいわけで、その道具がどのような形をしていもよいし、使い勝手が悪くてもいいのだ。結果として切れたことが私には成果であり、次の瞬間にそのものの欲求価値が失われるのである。つまり簡単に言えば、とんでもなく飽き性であるともいえる。