震災から10年。
区切りになるわけではないけれど、あの時、東北に足を運んでいなかったら感じなかったこと、知り得なかったことがいくつもある。
被災された方々から「伝えてほしい」と託された思いも。
あの時の気持ちを再確認するために、今日から少しづつ、綴ってみることにした
初めて東北へボランティアに行ったのは、震災の約3ヶ月後。
行くのが遅くなってしまったと感じていたけれど、そこにはまだ大量に積み上げられた廃車の山や、大きくひしゃげたガソリンスタンド、頭上よりずっと高い建物の上に乗り上げたままの車など、そこら中に津波の威力を実感させられる光景があった。
最初は「被災地」へ行くのが怖かった。
余震も怖いし、津波も怖い。そして、放射能が怖かった。
それでも、大変な思いをしている人たちを、当たり前のように手助けしたいと動き出す仲間の存在に、不思議なほど、恐怖心が消えた。
こういう思いの人たちと一緒なら、何にも怖くなかった。
現地に到着し、地元のボランティアセンターでまず割り当てられた作業は、ヘドロすくい。
側溝に溜まった大量のヘドロを、スコップで黙々と掘り出す。
6月といっても、真夏のような暑さだ。
強い日差しの中、軍手をはめての作業は、暑さに拍車をかけた。
そこは海岸から遠い、静かな住宅地。瓦礫の撤去作業を想定していたので「こんな所で泥すくい?」と、最初は不思議でもあった。
休憩時間、近所の男性と、ボランティア数人で立ち話をした。
その場所は、それまで見てきた破壊された町と違い、目立った被害は受けていないようにも見える。
「この辺りにも、津波は来たんですか?」と尋ねた。
「来たなんてもんじゃねえよ」
当時、その一帯がどのような状況だったか、そのおじさんは話してくれた。
おじさんの家の庭には、見知らぬ女性が倒れていたそうだ。そこら中に、流されてきた人たちが息もなく横たわっている…海なんて全く見えない、海の気配すら感じられない場所なのに。
「こんな所まて津波が来たんだ…」
いたって平和に見える夏の住宅地で、わずか3ヶ月前に拡がっていた光景を想像した。
2日目は、海岸沿いで瓦礫の撤去作業へ。
内陸の住宅地とは違い、その一帯に家は何も無い。あるのは家の基礎と、そこに残る瓦礫だけ…。
家主の奥様にご挨拶し、作業を始めた。
「瓦礫」という言葉は複雑だ。今となっては瓦礫でも、それは明らかに、そこに日常があった証の物たちだ。
「瓦礫」に混じって、その土地の一画に、しっかりと根づいた白い花が綺麗に咲き誇っていた。
「その花はお父さんの花だから、大事に扱ってね。」
家主の方が私たちに言った。その言葉にどれだけの思いが込められていたのか…。
その言葉を大切に受け止めるしかなかった。
穏やかに微笑んでいても、全てを失ったり、大切な家族が見つかっていない人も大勢いる状況だった。
活動中に出会う人たちの抱えるものの重さを感じ、その方たちの表面だけじゃなく、「抱えるもの」、言葉の奥の思いを受け止めようとするようになっていった。
非日常の場にいて、心から会話しているように感じることは、この後、何度もあった。とても口先だけの会話なんてできなかった。
そして、初めて出会う人たちとの「心で交わす会話」は、悲劇が起きた地にも関わらず、私の心に、それまで感じたことのない火を灯していた。