カンボジアの悲劇(約30年前に同じアジアで起こった大虐殺)
今回のレポートはカンボジアで起こった大量虐殺についてです。
ポルポト、クメールルージュ、名前は聞いたことがあるが詳細は知らない方が多いかと思います。私も実はその一人で今回のカンボジアの旅から多くのことを学びました。少し話は長くはなりますが、同じアジアで30年ほど前に起こった悲劇を皆さんにも知っていただければと思います。残酷で生々しい話も書いておりますが、ご了承ください。
カンボジアで起こった大虐殺の背景
カンボジアは1863年以来、フランスの植民地だった。国王シアヌークによってカンボジアが完全に独立したのが1953年である。シハヌークは仏教理念に基づいた民主化を進め、独自の経済政策を行った。
しかし60年代後半になると経済の悪化に加え、ベトナム戦争の影響もあり、国内が乱れていく。シハヌークは強制的に国を治めようとしたために、当時の首相ロン・ノルによってクーデターを起こされ、シハヌークハ一時北京に亡命する。
そしてシハヌークは「カンプチア民族統一戦線」を結成し、共産勢力のポルポト率いるクメールルージュと手を組み、政権を取り戻そうとする。こうしてカンボジア勢力同士の争いもあって国はますます混乱していく。
1975年4月17日、ベトナム戦争でアメリカが手を引いた後、クメールルージュを中心とした民族統一戦線はカンボジアの首都プノンペンに侵攻。彼らは共産主義のもとで農民たちの地位を保証し、プノンペンの市民を市外へと強制的に移動させた。人々は農村へと何も分からないまま移動させられて、厳しい監視の下で過酷な労働を課せられた。私有財産もすべて没収されてしまう。わずか1週間の間にカンボジア内の他の都市でも同じことが行われた。
僧侶、医者、先生等は最初は新しい国家建設のために彼らの力が必要といって、その言葉を信じたものが次々とポルポトのもとに集まった。これは全くの嘘であり、多くのものはトラックでの移動中に殺害された。共産主義・クメールルージュの政治以外のあらゆる思想は禁止され、以前は敬われていた仏教徒もひどい弾圧を受けることとなる。政治に対する不満を漏らしたり、スパイとみなされたものはプノンペンのS21という政治犯の収容所に連れて行かれ拷問され、多くの人々が命を落とした。
1978年12月25日、ベトナム軍はヘン・サムリン率いる「カンボジア民族救国統一戦線」とともにプノンペンを攻撃。翌年1月6日にプノンペンは陥落する。その直前にシハヌークハ北京へ、ポルポトはタイとの国境地域へと逃亡した。
たった4年と9カ月の間に、当時800万人ほどいたと思われるカンボジア人の約5分の1が命を落としたといわれている。
私は今回、プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館(S21政治犯収容所)とキリングフィールド(チュンエク大量虐殺所)を訪れた。
トゥールスレン虐殺博物館はもともと学校だったが、クメールルージュによって、スパイの収容所として使われていた。ここで多くの人々が拷問を受け殺害された。館内には当時収容されていた人々の顔写真が残されている。
建物には収容所の独房が当時のまま残されていた。ベッドに鎖が設置してあり、当時の生々しい血痕も残されていた。
人々は突然この場所に連れてこられて、トイレほどの大きさの真っ暗な独房に入れられた。 建物は厳しく監視され、独房の外も逃げられないように金網が設置されていた。
拷問は監視が疲れるまで徹底的に続けられた。ある者は手足を縛られ逆さ吊りにされ、水の桶に顔を突っ込まされたり、またある者はペンチで指を切られたりと信じられないほど残酷なことが当たり前のように行われていた。食事もスプーンで数杯ほどのご飯しか与えられず、人々は飢えに苦しんだ。
チュンエク大量虐殺所は人々を殺害するために連れていく最終地点であった。カンボジア内にはこのような場所が300余り存在した。施設内には当時殺害された人々の遺骨が中央の塔の中に納められている。
ここでは入管の際にヘッドホンを受け取り、各々の言語によって当時の状況を知ることができる。
中央の塔からナレーションを聞きながら敷地内を一周する。ヘッドフォンではカンボジアの歴史的な背景、敷地内の説明、生存者や看守の話も聞くことができる。そこで聞いたいくつかのストーリーを紹介したい。
生存者の証言
殺害目撃
私はある兵士が女性の囚人がバナナを持っていたのを目撃する。
兵士「どこで盗んだんだ!」と問い詰める。
女性「兵士が私にくれたのです。」
兵士「そんなの嘘に決まってる!どこで盗んだんだ!」
女性「本当です、信じて下さい。」
この兵士は担いでいた斧でその女性を何度も何度も殴り、殺害した。
私は胸が引き裂かれる想いだった。
嘘の告白
キリングフィールドでは毎日嘘の告白をさせられた。
だんだん話のネタが尽きてきた。しかし、告白をしないと殺されてしまうのだ。
私が暴行され苦しんでいると、一人の老人が私をかばってくれた。
「この子は何の罪もない若者だ、どうか助けってやってください。」
私は殺されずに済んだ。
のちにわかったことだが、その老人が私の身代わりになって殺されたのだ。
キリングツリー
キリングフィールドの中にある大木に数多くの色鮮やかなヒモが供えられている。
この大木は赤ん坊や小さな子供たちを殺すために使われたそうだ。
泣き叫ぶ親子を無理やり引き離し、その木に叩きつけたという。
虐殺が行われた後にここを訪れた証言者によると、木には多くの血痕と脳みその一部がこびり付いていたという。
ここチュンエクでは、周りに住んでいる人々に悲鳴などが響き渡らないようにスピーカーから大音量で音楽を流し続けていたそうです。
今、私たちができることは何だろう?悲しい過去からはどうしても目を背けたくなる。しかし、大切なのはこの悲劇を2度と繰り返さないために、実際に起こった悲劇を知り、後世に伝えていくことだと私は思う。今はメディアが発達しているので、簡単に歴史を調べることができる。たくさんの書籍も出版されている。もしカンボジアに来られる機会があれば、一度キリングフィールドやS21にも足を運んでいただければと思う。
今回はかなり長い話になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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ポルポト、クメールルージュ、名前は聞いたことがあるが詳細は知らない方が多いかと思います。私も実はその一人で今回のカンボジアの旅から多くのことを学びました。少し話は長くはなりますが、同じアジアで30年ほど前に起こった悲劇を皆さんにも知っていただければと思います。残酷で生々しい話も書いておりますが、ご了承ください。
カンボジアで起こった大虐殺の背景
カンボジアは1863年以来、フランスの植民地だった。国王シアヌークによってカンボジアが完全に独立したのが1953年である。シハヌークは仏教理念に基づいた民主化を進め、独自の経済政策を行った。
しかし60年代後半になると経済の悪化に加え、ベトナム戦争の影響もあり、国内が乱れていく。シハヌークは強制的に国を治めようとしたために、当時の首相ロン・ノルによってクーデターを起こされ、シハヌークハ一時北京に亡命する。
ベトナム戦争(1960-1975)
そしてシハヌークは「カンプチア民族統一戦線」を結成し、共産勢力のポルポト率いるクメールルージュと手を組み、政権を取り戻そうとする。こうしてカンボジア勢力同士の争いもあって国はますます混乱していく。
東洋のヒトラーと呼ばれたポルポト
1975年4月17日、ベトナム戦争でアメリカが手を引いた後、クメールルージュを中心とした民族統一戦線はカンボジアの首都プノンペンに侵攻。彼らは共産主義のもとで農民たちの地位を保証し、プノンペンの市民を市外へと強制的に移動させた。人々は農村へと何も分からないまま移動させられて、厳しい監視の下で過酷な労働を課せられた。私有財産もすべて没収されてしまう。わずか1週間の間にカンボジア内の他の都市でも同じことが行われた。
僧侶、医者、先生等は最初は新しい国家建設のために彼らの力が必要といって、その言葉を信じたものが次々とポルポトのもとに集まった。これは全くの嘘であり、多くのものはトラックでの移動中に殺害された。共産主義・クメールルージュの政治以外のあらゆる思想は禁止され、以前は敬われていた仏教徒もひどい弾圧を受けることとなる。政治に対する不満を漏らしたり、スパイとみなされたものはプノンペンのS21という政治犯の収容所に連れて行かれ拷問され、多くの人々が命を落とした。
1978年12月25日、ベトナム軍はヘン・サムリン率いる「カンボジア民族救国統一戦線」とともにプノンペンを攻撃。翌年1月6日にプノンペンは陥落する。その直前にシハヌークハ北京へ、ポルポトはタイとの国境地域へと逃亡した。
たった4年と9カ月の間に、当時800万人ほどいたと思われるカンボジア人の約5分の1が命を落としたといわれている。
私は今回、プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館(S21政治犯収容所)とキリングフィールド(チュンエク大量虐殺所)を訪れた。
トゥールスレン虐殺博物館はもともと学校だったが、クメールルージュによって、スパイの収容所として使われていた。ここで多くの人々が拷問を受け殺害された。館内には当時収容されていた人々の顔写真が残されている。
S21の建物
囚人を逆さ吊りにした台
建物には収容所の独房が当時のまま残されていた。ベッドに鎖が設置してあり、当時の生々しい血痕も残されていた。
人々は突然この場所に連れてこられて、トイレほどの大きさの真っ暗な独房に入れられた。 建物は厳しく監視され、独房の外も逃げられないように金網が設置されていた。
拷問の行われた部屋
監獄の様子
拷問は監視が疲れるまで徹底的に続けられた。ある者は手足を縛られ逆さ吊りにされ、水の桶に顔を突っ込まされたり、またある者はペンチで指を切られたりと信じられないほど残酷なことが当たり前のように行われていた。食事もスプーンで数杯ほどのご飯しか与えられず、人々は飢えに苦しんだ。
拷問の様子①
拷問の様子②
チュンエク大量虐殺所は人々を殺害するために連れていく最終地点であった。カンボジア内にはこのような場所が300余り存在した。施設内には当時殺害された人々の遺骨が中央の塔の中に納められている。
ここでは入管の際にヘッドホンを受け取り、各々の言語によって当時の状況を知ることができる。
中央の塔からナレーションを聞きながら敷地内を一周する。ヘッドフォンではカンボジアの歴史的な背景、敷地内の説明、生存者や看守の話も聞くことができる。そこで聞いたいくつかのストーリーを紹介したい。
生存者の証言
殺害目撃
私はある兵士が女性の囚人がバナナを持っていたのを目撃する。
兵士「どこで盗んだんだ!」と問い詰める。
女性「兵士が私にくれたのです。」
兵士「そんなの嘘に決まってる!どこで盗んだんだ!」
女性「本当です、信じて下さい。」
この兵士は担いでいた斧でその女性を何度も何度も殴り、殺害した。
私は胸が引き裂かれる想いだった。
嘘の告白
キリングフィールドでは毎日嘘の告白をさせられた。
だんだん話のネタが尽きてきた。しかし、告白をしないと殺されてしまうのだ。
私が暴行され苦しんでいると、一人の老人が私をかばってくれた。
「この子は何の罪もない若者だ、どうか助けってやってください。」
私は殺されずに済んだ。
のちにわかったことだが、その老人が私の身代わりになって殺されたのだ。
キリングツリー
キリングフィールドの中にある大木に数多くの色鮮やかなヒモが供えられている。
この大木は赤ん坊や小さな子供たちを殺すために使われたそうだ。
泣き叫ぶ親子を無理やり引き離し、その木に叩きつけたという。
虐殺が行われた後にここを訪れた証言者によると、木には多くの血痕と脳みその一部がこびり付いていたという。
ここチュンエクでは、周りに住んでいる人々に悲鳴などが響き渡らないようにスピーカーから大音量で音楽を流し続けていたそうです。
慰霊塔
中央塔に納められた人骨
キリングツリー
アキーラ氏によって回収された地雷(地雷博物館、シェムリアップ)
今年も地雷による被害者が。。
今、私たちができることは何だろう?悲しい過去からはどうしても目を背けたくなる。しかし、大切なのはこの悲劇を2度と繰り返さないために、実際に起こった悲劇を知り、後世に伝えていくことだと私は思う。今はメディアが発達しているので、簡単に歴史を調べることができる。たくさんの書籍も出版されている。もしカンボジアに来られる機会があれば、一度キリングフィールドやS21にも足を運んでいただければと思う。
今回はかなり長い話になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
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