2018夏の被災後に妻の実家へ家族ごと居候を1週間

 

被災時に連れて逃げれなかったおばあちゃんのお骨を被災の実家へ戻って回収して(おばあちゃんは被災一か月前に病院で亡くなってお葬式済んで49日までの自宅での祭壇で法要中)、

 

妻の実家の部屋の隅に置いて確保しましたが、丁度うちの子ども達はテスト週間だったりして勉強の部屋とか寝る場所を確保する事がなかなか大変で、やはり居心地は悪く、車で30分くらいの親戚の家(父の姉の家。一人暮らし中で被災はしていない)へ行って3週間。

 

 

僕はそれまで専属の仕事が有ったので、平日は実家で暮らしつつ週末は妻の実家で生活していましたが、結果水没後は機械の再導入は無理となり専属の職は消滅し雇用調整助成金も1年後終了し(僕はその間も泥カキと洗浄で実家の職場へ日中は通い、稼働した時間分の時給を貰っていましたが)

 

結果新築が建ってテレワークで図面を書く仕事に当たる今年の10月までは、納税の義務に至らない収入のままで、妻の実家とみなし仮設アパートと、水没した実家の工場を行き来する日常でして。

 

 

こうなると妻側の親戚一同、被災もしていない、家族で困っている人もいない、世間も被災の事は半年もたてば話題も無くなり、本人たちはとても良い大繁盛した時代を送り、職も公務員から医療関係者などとても安定的かつ、ボーナスや有休や高学年金の、ブルジョアジー感満載で。

 

そのお子様・お孫様方も、やれ大学だ、やれ大企業へ就職だ、やれ待遇の良い環境はどうだ、などと何かの集まりに付け盛り上がり。

 

 

 

我々被災者は世間からおきざりにされ、収入も無く、コロナになり職場の納入方針も大幅に路線変更せざるを得なくなり、うちの子ども達は専門学校は学費の関係も有り退学、下の子も進学をあきらめ少しでも早く収入に繋がる様にと就職希望となって、今に至ります。

 

 

まさに肩身が狭いとはこの事だ、と世間や親戚の無理解は明日を見えなくすると、実感しました。

 

 

帰りたくても帰れない、帰る場所が無くなった事をしみじみと、妻の実家の隅で(家具屋の新人さんと演奏しようと中古で買った)ベースを弾きながら作曲した「帰路」です。

 

 

 

 

 

世界の少数民族は、搾取され滅ぼされ、多数の圧力に踏みにじられて来た歴史を刻んでいる話を各方面で聞きますが、帰れない帰りたい、の苦しみがほんの少し分かった様な気がします。

 

辛い時にはつらい曲で癒されます。