先日、有名そうな音楽療法の専門家がテレビか何かで言われてましたが、
「音楽には思い出を喚起する事で、脳が活性化するという効果が有ります、ご老人に若い頃聞いた思い出深い曲を聴かせると、脳の血流量も増えて痴呆防止、運動も伴えば健康増進、リハビリにも効果あり」との事。
実際脳波や血流測定の器具を付けて実験。確かに知っている曲を聴かせるといろいろ値も増えるという事をされていました。

で、さて、何かの番組で入眠を即す最適音楽もかけられていました。
僕が小学校の頃給食準備中にかかっていた、安らぎ系のクラシック音楽でした。


ここで、音楽にもちょっと関わってきた僕としてはいろいろ想う所が。

「思い出を喚起する」
これは音楽以外にも、触覚(手触りとか温度の感じとか)や、嗅覚(懐かしい雨降りの夏の臭い、等など)他も思い出を甦らせそうな感覚は多いと思います。

音楽の効果が最も顕著な反応として「思い出喚起」だとすると、
人生で初めて聞く音楽には無反応、弱反応という事になりますが、僕の、ディジュリドゥにおもいっきり反応する音楽脳は普通と大分違うのだろうか?
勿論幼少期オーストラリアとの接点も皆無、アボリジニの存在などもディジュリドゥの音色にハマってから知る事となるわけです。

ど田舎に生まれ育っているので、親も含めて流行音楽などとも殆ど縁はなく(ビートルズでさえドンピシャの時代に全くかかっていない家に生まれ)アバンギャルドの要素も考えられない(未だに考えられないと親や身内は話します、親父は民謡は聞いていた様ですが)

そして、僕の場合は給食時間の音楽では、慌ただしく準備に追われている記憶が蘇ってくるので、上記の安らぎ系音楽ではなかなか眠れない気がしてます。



好きな音楽は本当に人それぞれで、思い出が蘇る場合もあれば、その他としても、演奏している人の、演奏へ打ち込む心の躍動と視聴している自身の心が重なっていくという一体感の効果など、等、他にも数々音楽の効果は有ると思います。



以前非常に深く交流させて頂けた「フリーインプロビゼーション」というジャンルでは(ジャズピアノの大御所佐藤先生ともディジュリドゥにてライブさせて頂けた時代)
そのライブはまさに、今まで誰も聞いた事が無い、出来るだけ広い音楽ファンの認識の無い、本当にその場で初めて始めたアプローチにより、観客を大いに沸かす、という。
冒頭の音楽効果の常套句の真逆を突く音楽芸術の極地。

でもそのファンは多く、フリークは、いつもの様な、どこかで聞いた事の有る様な、深みの無い展開が有るとブーイング出かねない、シビアな世界。

各演者は、伝統音楽であれ前衛音楽であれ、今までにないアプローチ(無論今までのアプローチは理解し、熟練したうえで)を初めて繰り出し、ドラマが起こる事を意図的に、且つ活き活きと組み立てて、たまには偶然も味方につけて舞台演奏を沸かせていた様に覚えています。


むかしむかしの、寝かしつけられていた子守唄に、懐かしさや温かさを感じるという事自体は、実感としては悠久の、太古からの至極当然の音楽効果であり、ごく最近になって実験でも具体的な脳への効果が分ってきた、という事は医学の進歩と音楽療法の進歩とも言えて素晴らしい事では有ります。

僕は音楽における効果は上記の真逆のアプローチ程深く脳へ、心へ響く様な気がしてならないなぁ。

ディジュリドゥの音色の変化は、何処かで聞いた様なメロディを奏でられる事は無く、深い振動と、刻々と変化する、そして呼吸による奏者の音楽脳を時間と共に染み渡らせて消えていく。

流行の浮いた、メディアの取り上げる、直ぐ沈み取り換えられる、表面的な音楽では語れない何か「胎教の様な思い出を喚起する何か」か、
「耳で聞く以上の心に聞こえる何か」か、
「生まれや育ち、時代、環境や記憶を軽々と超えて響く何か」なのか。


僕のディジュリドゥにおけるそれ以外にも無限に存在しているかの様な深淵な音楽脳共有体験の何か、か。

いつか現代科学や医学が具体的に示してくれるだろうか。そんなに遠く無い様な気もしております。
Y・K

さて、戯言はこのくらいにして、総社芸術祭に出演の依頼を頂きました。

文化財の現場の、生えている竹を切らせて頂いて(許可の進捗にも寄りますが)皆で自分だけの竹ディジュを製作して演奏ワーク。
翌週にはライブイベントへ繋いで合奏セッション。
会場、段取り、御紹介下さった作家の平田先生、演奏メンバー
打ち合わせ頑張るぞーー^^/