昭和34年~38年
善さんは自分の父親を避けていました。
結婚を反対されたからです。
私たちは駆け落ち同然で家を出ていました。
あるとき、父親が私たちのことを探していることがわかりました。
「野垂れ死にでもしているんじゃないか」
そして自分の会社に
「入れてやるから来い!」と言っている、と
善さんのお兄さんから連絡が来ました。
でも善さんはそんな言い方をされたら余計に反発し
「ぜったい行かない」と無視し続けていました。
子どもの頃の辛い思い出もあったのでしょう。
父親は、母と子供たちを置いて
一人で日本国内のみならず
上海などへも転々とし
生活費は一切入れず、
とても苦労した、と聞いたことがありました。
なかなか受け入れられない気持ちもよくわかります。
そんな状況が半年ほど続いていましたが
ついに父親が折れました。
「仕事を手伝ってほしい。一緒にやってくれないか」と言ってきました。
父親も年をとり先々のことが不安になってきたのでしょう。
その頃、私たちも裕の病気のこともあり
安定した生活や
多額の手術費用が必要でした。
このまま確執を続けている場合でもありません。
私たちも意地を張らず
歩み寄ることにしました。
その会社「スズランコート株式会社」(元、日本ゴム布工業株式会社)は
洋服の製造販売の会社でした。
善さんの新入社員としてのお仕事は
縫製を依頼している下請け業者を回ることでした。
善さんは下請け業者の方たちとも
気さくに話をするようになり
裕のことも
きっといろいろなところで話していたのでしょう。
私たちの頭の中はいつも裕のことでいっぱいでしたから。
すると、ある会社の社長さんが
「うちの娘が東京女子医科大学に勤めているよ」と話したそうです。
私たちがずっと探し求めていた榊原教授がいる
東京女子医科大学です。
一筋の希望の光が見えてきました。
お願いします。
ぜひ榊原教授に
手術をしてもらいたいのです。
裕は
手術をしなければ
あと5年ぐらいしか
生きられない、って・・。