就職3と習い事(八王子→東京都北区志茂町)

 

昭和24年、八王子の「上野原編織」という

トリコット生地の会社で仕事をすることになりました。

父は工場長、私は経理です。

 

山口での教職が忘れられずあまり気乗りがしない状態でしたが

これは父が仕事をする上での条件でしたので仕方がありません。

 

経理のお仕事は先輩の熊坂さんがとても親切丁寧に教えてくださいました。

仕事も少しずつ覚え、事務の方たちとも仲良くなり

その年の秋には社員旅行で箱根に行き

翌年5月には河口湖にも行きました。

 

昭和25年1月

この地域での成人式が初めて行われるという事で

この年満二十歳になる私は街頭でインタビューを受けました。

内容は・・・

残念ながら忘れてしまいました。

 

このころから各地で

1月15日に成人式が行われるようになったようです。

しかし、こんな喜ばしいことがある中

勤めていた会社の経営が悪化し、父は再び仕事を探すことになりました。

 

運が良いのか腕があるのかわかりませんが

父はすぐに仕事に就くことができ

今度は東京都北区志茂町というところへ家族で引越しをしました。

赤羽の近くです。

この時の父の仕事は何だったのかしら?

よく覚えていません。

 

というのも

志茂町は少し電車に乗れば都心に出ることもできます。

都心には今まで見たこともない大きな建物が並んでいて

お店もたくさんありとても魅力的でした。

「東京」という都会を目の当たりにし

これからの自分のことで頭がいっぱいでした。

 

私は少し貯金もあったので仕事を探すことよりも

何か身に着けたい、と思いいろいろな習い事を始めることにしました。

学生のとき、戦争でまともな勉強ができなかったからかもしれません。

それと、年頃だったので

「花嫁修業」も兼ねていたのでしょう。

今はそんな言葉なくなってきているかしら?

 

和裁、三味線、お花、タイプライターを習いました。

和裁は嫌いで教職のときも苦手で苦労し

一人では何も縫えなかったので習うことにしました。

その和裁の先生が長唄の先生でもあり

「大田さん、三味線やってみない?」と言われ

三味線の練習もしました。

先生の三味線を貸してもらい

家に持って帰って練習しましたが

とても難しかった記憶があります。

その時以来、触っていません。

 

和裁、お花は花嫁修業になりますね。

その2~3年後には

お料理学校にも通いました。

 

そして一番好きだったのはタイプライターです。

なぜタイプライターなのかというと・・

 

街の広告看板だったでしょうか。

タイプを打つ女性の姿を見て

「かっこいい!これをやりたい!!」と思い

お茶の水タイピスト学校に入ることにしました。

 

「英文科」と「邦文科」があり

受付で「女学校を出ているので英文科ですね」と言われましたが

ちょうど戦時中のため

女学校では英語を習うことができなかったので

「邦文科」に入学しました。

 

カシャカシャとキーを打つことができるようになってくるととても嬉しくて

タイピストのお仕事ができたらいいなぁ、と思っていました。

 

通い始めてからしばらくたった時

父が新聞の求人広告で事務のお仕事を見つけました。

「日本ゴム布工業」という会社で

父は会社の名前に「日本ゴム」とついているから

「大きな会社の子会社かもしれない、きっと大丈夫だろう」と

何の根拠もないのですが私に勧めました。

私も習い事ばかりしていて貯金がなくなってしまい、

そろそろ仕事をしなくては、と思っていたので面接を受けることにしました。

 

タイピスト学校は仕事を始めても続けたかったので

夜学に変更し無事卒業することが出来ました。

私のパソコン好きは、この頃から通ずるものがあったようですね。

 

そしてこの「日本ゴム布工業」という会社が

後々「運命の出会い」となる会社だったのです。