就職2(山口県美祢郡→東京八王子)

昭和23年3月~昭和24年

それからというもの、山口大学へ行って

泊まり込みで勉強をしたり講習を受けたりと、

生徒たちに教えるために必死に勉強をし単位をとりました。

 


そして新年度から6年生を担当することになりました。


生徒たちとさほど年も変わらないので話も合い、

あるとき

「先生!神社のお祭りの『泣くな小鳩よ』見ました!」

などと声をかけてくれる生徒もいました。

 

私は、商業を出ていたおかげで

算数は得意科目でしたが家庭科が苦手でした。

両親が縫製の仕事をしていたのですが、私は全く興味がありませんでした。

しかし女子に浴衣の縫い方を教えなければなりません。

母に教えてもらいながらなんとか浴衣を縫うことが出来ました。

男子には栄養学を教えました。

 

また、その年の秋の大運動会でダンスをすることになり、

夏休みに美祢郡の小学校の先生が集まって研修を受けることになりました。

真夏の暑い日で汗だくになって練習をしていました。

 

「チリン♪チリン♪」

 

そこへちょうど自転車に乗ったアイス売りのおじさんがやってきました。

私は休憩時間のたびにアイスキャンディーを買って食べました。

「冷たくておいしい!」

なんと10本以上食べていたみたいです。

 

「大田先生何本食べるの??」と

 

他の先生方に笑われた記憶があります。

家庭訪問もありました。

生徒のご両親がお餅をついたり、おはぎを作ってくれたり、

まだ19歳の私をもてなしてくださいました。

 

それから先輩にとても素敵な先生がいました。

水上則正先生です。

愛とか恋とかではなく憧れの存在です。

とてもセンスの良い都会的な先生でした。

後に同僚の先生とご結婚されたそうです。

水上先生は師範学校を出ていらっしゃいましたが、

玉川大学の通信教育課程を受けていて、時々東京に行っていたようです。

私が東京に引越した後、1度だけお会いしました。

今どうしていらっしゃるでしょうか。

 

 

 

そして私はだんだん授業にも慣れ、

教えることがとても楽しく

先生という職業が天職に思えてきたところでした。

 

 

その頃、絵堂というところに住んでいましたが

お向かいの床屋さんがとても美人で

父は度々入りびたり

母は気をもんでいたようです。

そんな頃、父の仕事の終わりが見えてきて

(生地がなくなれば縫製のお仕事もなくなります)

仕事を手伝っていた姉は、都会育ちのせいか(神戸のデパートガール)

すでに田舎生活に飽きてしまって、さっさと家を出て行ってしまいました。

そして父はまた新たな仕事を探さなくてはいけません。

 

 

社交的だった父に知人からまた仕事の話がありました。

 

今度は東京都八王子の縫製工場です。

父は工場長、私は本社の経理のお仕事をいただきました。

 

私としては、先生という職業にやりがいを感じていたので

辞めたくはありませんでしたが

せっかく次のお仕事を用意していただいているので

やむなく2年間で幕を閉じることになりました。

 

赤郷小学校の教頭先生からは

「ぜひ先生を続けてください」、と言って

勉強できる大学の紹介状もいただきましたが、

残念ながらその後教壇に立つことはありませんでした。