就職1(明石→山口県赤郷)

昭和21年、卒業後は日立造船神戸出張所に就職が決まりました。

 

私はいいところに就職できたと喜びしばらく働いていましたが、

神戸では父の仕事が見つかりませんでした。

 

父が神戸で仕事を探していると偶然知人に会い、

山口にいる友人が生地をたくさんもらって困っている、という話を聞きました。

 

実はそのころ農家ではお米を政府に供出してもお金が少ししかもらえず、

代わりに軍服を作っていた生地がたくさん余っていたのでそれを配られたとのことです。

どんなに良い生地でも農家のかたは縫製もできず

たくさんの生地をもらってもどうしようもなく困っていたのです。

そこで知人から

「縫製の仕事をする人を探している」、という話がありました。

 

すぐさま父と姉は山口県へ様子を見に出かけました。

役所に問い合わせると、ぜひ来てほしい、家も用意します、と言われ、

これなら2~3年は働けると思い、

家族で山口県赤郷へ引越すことになりました。

ミシン1つあれば仕事ができる、と

ミシンを大事に防空壕に入れておいたおかげで仕事が見つかりました。

そうは言っても父はもともとメリヤス工場を営んでいたので

洋服を縫うのは初めてでしたので猛勉強をしたようです。

 

余談ですが父と姉で様子を見に行ったとき、

土地の方から「若い嫁さんを連れてきた」と噂になっていたそうです。

すぐに母や子供たちがぞろぞろ行ったので誤解は解けましたが。

 

私の方は、残念ながら仕事がなかなか見つかりませんでしたので

1年ほど青年団に入ることになりました。

神社のお祭りで「泣くな小鳩よ」という劇をした記憶があります。

当時流行っていた岡晴夫さんの歌謡曲を映画化したお話だったと思います。

その劇でなぜか私がヒロイン役を演じることになりました。

 


昭和22年、義務教育制度の改正がありました。

そのころ、山口県赤郷では女学校を出ている人も少なく、

私に先生になってほしい、というお話が舞い込んできました。

先生を増やす政策でもあったのでしょうか。

私は商業学校しか出ていないし、荷が重いお話だったのでお断りしたのですが、

助手でもいいからと強く懇願され、

昭和23年1月、山口県の赤郷小学校の先生になりました。

今だったらありえないお話ですね。