~回想~
女学生時代(神戸→明石)
昭和17年4月、神戸市立第一女子商業学校に入学しました。
商業の学校では、簿記や珠算もあり、毎朝1時間ほど早く学校へ行き
そろばんを持って講堂に集まり読み上げ算の練習をしました。
珠算は大好きで競技大会で優勝しましたから進路は間違っていなかったのかも知れません。
学業の成績は真ん中ぐらいでした。
クラスの人みんなが受験をしてきたので勉強が良くできるのは当たり前ですよね。
小学校では上位の成績だった私は、目立たない普通の生徒になってしまいました。
少しでも怠けて予習をしていかないと置いてきぼりになると思って私なりに頑張って勉強しました。
この学校で、4年間みっちり勉強すると英語の簿記まで習得出来て、
卒業の時は商社や大企業から引く手数多だと聞かされました。
ところが昭和19年、私が3年生になった年の後半から、日本の情勢が悪くなり、
その頃の若い女性はみんな軍需工場へ徴用に取られ働くようになりました。
姉は大丸のデパートガールでしたが徴用で明石の軍需工場へ行くことになりました。
しかし、神戸の家からは遠く通えないので、家族全員で明石へ引越したのです。
政府からの命令は厳しいものでした。
私は明石から省線(現在のJR)に乗って神戸の学校へ通いました。
年が明け、3年生の3学期ごろになると、いよいよ私たち学生も学徒動員され、
軍需工場や電話局に配属されて働くことになってしまいました。
2クラスが神戸中央電話局に決まり私達のクラスは市外局に配置されました。
交換手の技術研修期間3カ月を得て終了書を貰い、
初めて交換台に座って実技が出来るのです。
今は殆どの家に電話が有りますし、番号を押せば相手と直接通話が出来ますが、
その時代には一般家庭に電話は有りませんでした。
急用の時は公衆電話とか近所の商店の電話を借りて掛けていました。
今の若い人達から「電話交換手の仕事って何をするの?」と聞かれそうですね!
私も詳しいことは分かりませんが、目の前のパネルにランプが点灯し、
そこにプラグを差し相手と話が出来るので取次ぎをするお仕事でした。
最初は、先輩の交換手のお姉さんが横に座って指導してくれました。
ランプが付くと、もう胸がどきどきして声も出ません。
しかし何度かやるうちに慣れてきて、度胸も付いてきます。
だんだん楽しい仕事と思うようになりました。
仕事の他にも学校からの要請なのか、1日2時間は生徒が集まり各学科の勉強をしていました。
20年3月頃からアメリカの本土空襲が始まりました。
東京や大阪など大都市を焼き払い、次々に各都市も焼け野原にされました。
私達家族が住んでいた明石も、7月7日の未明、空襲警報のサイレンと同時に
B29の編隊が頭の上を飛び周り、焼夷弾を落として行ったのです。
私たちは無我夢中でその下を薄い布団を頭から被って逃げ回り、
道路近くにあった防空壕に入って避難したのですが、その入り口に焼夷弾が落ちました。
とっさに姉が持っていた布団を被せて消してくれました。
しかし防空壕の中も安全ではないのです。
防空壕に焼夷弾が落ちたら蒸し焼きになる、と言われ川の方へ行き
土手にへばり付いて、敵機が海の方へ去って行くのをじっとして待っていました。
明石市全部が焼き尽くされた様に何処も彼処も火の手が上がり燃えているのです。
生まれて初めて死と直面した恐ろしい経験でした。
今でも鮮明に覚えています。
その時の恐怖がトラウマとなっていたのしょう。
その後しばらく飛行機の爆音を聞くと身の竦む思いがしました。
空襲警報が解除されてから、家の様子が心配で見に行きました。
しかしそこは何もかも焼けてしまってまだ火柱が上がっている状態でした。
「危ないから近寄らないで山の方の小学校へ避難してください」と言われて
家族は近所の人達と一緒に避難所になっている学校へ行ったのです。
父親にはなかなか会うことができませんでした。
若手の男性たちは青年団の人達と一緒に怪我人の手当てや、道順を誘導したりしたそうです。
2・3日小学校で避難していました。
お世話をして下さっている町会の皆さんから、おにぎりや食べ物を配って頂き食べた記憶が有ります。
我が家は疎開する田舎が無いので、焼け跡にバラックを建てて住むことにしました。
軍需工場の近くは爆弾で壊された家がたくさんあって、その材木を頂いて来てバラックを建てたのです。
父は悪い事と知りながらも此処で生きて行くには仕方がないと覚悟を決めて、
何とか雨露をしのげるように家を建ててくれました。
近所の人達も同じような小屋を建てて住んでいました。
私はバラックの家から神戸の電話局へ通っていました。
しかしまだ戦争は終わっていません。
焼け野原に少しずつバラックが立ち始めた時、又B29の敵機か襲って来て爆弾や焼夷弾を落としていくのです。
その度に防空壕の中へ逃げていました。
母が疲れからか体調を崩して寝ている時も
空襲警報のサイレンが鳴って、皆防空壕へ避難したのですが、
母は「もう死んでも良い」と言って動きませんでした。
疲労困憊だったのでしょう。
そして昭和20年8月15日、
終戦の玉音放送を聞いたのは電話局の交換台に座っていたときでした。
先生から「皆さん集まってください。大事な放送があります」と言われ、
先生の周りに集まって直立不動の姿勢で、ラジオからの玉音放送を聞きました。
実際はお言葉がはっきり聞こえなくて、何のことか分かりませんでした。
あちらこちらにお姉さん達も集まり固まって、ラジオを聞いていましたら、お姉さんたちは皆泣き出したのです。
どうしたのかしら?
女ばかりの職場なので、良く言い争いをしていたことがあったので、また?と思っていましたら 、
先生がこうおっしゃいました。
「日本は戦争に負けたのです。今日は皆、家へ帰りなさい。後で連絡をします」と。
帰りの電車の中でも歩いている人達も、表情が硬く暗い面持ちだったように覚えています。
しばらくすると色々な風評が耳に入って来ました。
「アメリカ人が上陸したら女の人は危ないから髪を切って坊主になり男の洋服を着て歩きなさい」とか、
「 女の人は、1人で外出してはいけない」など。
私は学生だったので、学校が焼け残っているかとても心配で、
夏休みの時期でしたが電車が動いているか調べて学校へ行ってみました。
校舎は少し焼け落ちた所か有りましたが2学期からは学校が始まると確信してバラックの家へ帰って来ました。
父の会社は焼けて復興の兆しも無く、姉が勤めていた軍需工場も終戦で閉鎖し、
妹はどうしていたかしら?小学校へ入っていたか記憶が有りません… 。
私だけが電車で学校へ通うことになったのです。
毎朝出かけるのは私だけで、朝ご飯のお粥も私が一番に食べていたので、
よく姉から、「いな子は一番美味しいところを食べてる」、と言われました。
家族の多かった我が家では私が出かけたあと、お粥にさらにお水を増やして食べていたそうです。
母は焼け跡の空地を耕して野菜を作っていました。
食料不足でお米も配給になり雑炊とか団子汁を売っている食堂に並んで食べた事もあります。
空襲の時母が、父のミシンや母や姉の着物を防空壕に入れていたので、燃えずに助かりました。
着物があったおかげでお米と交換することができ、生きて来られたのです。
父が広島や岡山の方の田舎へ持って行きお米と交換していましたが、
それは違法行為だったようで帰りの列車で憲兵に見つかりお米を全部取られた時もありました。
2学期から授業が始まりました。
久し振りに友達に会い、「生きていて良かったわね〜」と抱き合って喜び会いました。
仲の良かったお友達が一人空襲で亡くなったと聞かされ涙が出て皆と冥福を祈りました。
戦争に負けた日本はどうなるのでしよう?
危惧を抱えながらも通常の学校生活を取り戻し、
秋の文化祭にはクラスの有志が集まり「かぐや姫」の劇を演じて拍手喝采を浴びました。
私はかぐや姫に求婚する青年3人の中の一人の役でした。
3人でどんな服装にしよう…と考えて父親の黒い紋付きの様な着物を着たように覚えています。
そして、昭和21年3月、神戸市立第一女子商業学校を卒業しました。