知形神社の「嫁ごぶち」 上 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 《「男性のシンボル」で女性つつく天狗、5年ぶり復活 福井県美浜町で9月1日に奇祭「八朔祭」》という見出しで、8月28日の福井新聞に以下の記事。

 《子孫繁栄や五穀豊穣を願う福井県美浜町新庄の奇祭「八朔祭(はっさくまつり)」が9月1日、区内で営まれる。2020~22年は新型コロナウイルス感染拡大、昨年は人口減少や高齢化に伴い神事のみとなっていたが、今年は樽神輿(たるみこし)を担ぐ住民の制限をなくすなど決まりを変更し開催する。男性のシンボルを模した神棒を持った天狗(てんぐ)が5年ぶりに登場する。

 同祭は数百年前から伝わる伝統行事。区内で東西に分かれ、東字(ひがしあざ)は午前中に行列をなして笛と太鼓ではやしを奏でながら日吉神社に向かって歩き、樽を奉納する。西字(にしあざ)は午後に八朔音頭を歌いながら樽神輿を担いで練り歩き、同じく日吉神社で樽を奉納する。東西とも露払い役として長さ約50センチの神棒を持った天狗が登場。つつかれた女性は子宝に恵まれるとされる。》
https://mihama-shinjo.com/?page_id=86

 この祭りは、福井県内で、一番エッチな祭りだということですが、エッチ度の順位付けというのはどんな審査を経て行われているんでしょうか。

 

     
       深谷市 田中知形神社 2012年3月撮影


 まっ、それはともかく、この報道から、わたしは、深谷市(旧大里郡川本町)田中の知形神社を、思い出しました。この神社では、かつて、「嫁ごぶち」という、unbelievableな行事が行われていたといいます。これが原因で、近隣の村から、「嫁にやるなら田中はよしな、袖に涙が絶えやせぬ」と歌われたといいますから、それはそれは新嫁にとつてはimpossibleな行事だったに違いありません。

 小正月のものつくりの日に、村中の若衆が知形神社の社務所に集まり、ねむの木で「大のこごう」「小のこごう」と呼ばれる男根と女陰を象徴する二本の棒を作り、嫁に来たばかりの家を訪れて、嫁の尻を叩く、とまぁ、簡単にいってしまえば、そういうことで、新庄の八朔祭りと大した違いはつかまつらず、so what?と、木で鼻をくくったように、いわれてしまうのがオチと思わないでもありませんが、実は、その叩き方が想像をはるかに超えており、つまりimpossibleなわけです。その詳細は、『埼玉の神社』によりますと、以下の通りです。

 《まず氏子総代に連れられた若衆が、新嫁のいる家に乗り込んで座敷に一同居並び、その家の舅姑が下座で歓迎の挨拶を述べてから始められた。新嫁は若衆に冷酒をすすめ、一同がこれを飲み干すのを見計らって座敷の中央に座り、腰巻をまくって這うような姿で尻を突出す。氏子総代が合図を送ると、若衆は新嫁の側で「来年は男の子ができますように」といって振り上げた大のこごうで尻を軽くたたくと新嫁は「痛い」(居たい)と大声で叫び、更に小のこごうで「再来年は女の子ができますように」といってまたたたいた。これは何度も繰り返され、最後に若衆は新嫁の肩を持って後ろへ引き倒して行事を終えた。》

 この行事がいつごろから始められたかは定かではありませんが、大正期まで続けられたといいますから、おそらく新嫁は腰巻以外に下着と呼ぶべきものを身に着けていたとは思えません。

 それで、いわゆる「白木屋ズロース伝説」を思い出しました。

 昭和7年(1932)、日本橋白木屋百貨店で火災が発生した際、上階にいて逃げ遅れた和服姿の女性店員たちが、命綱をたよりに外壁を下りようとしたとき、下に集まった野次馬連中から陰部を見られるのを恥じ、上昇気流による強風で煽られる和服の裾を直そうと手を放したため、墜落者がでた。そしてこの事件を契機に、日本女性はズロースをはくようになったとされる伝説です。

 鹿島茂の『関係者以外立ち読み禁止』(文芸春秋社)によりますと、井上章一は、当時の新聞報道を徹底的に調べ上げたうえで、この伝説を、パンツ促進派によるでっちあげであるのみならず、パンツ着用が常態である時代の偏見でもある、と指摘し、白木屋事件後、高層ビルなどで火災訓練が行われても、ズロースをはく女性はいなかったという事実をあげているそうです。

 一方で、鹿島は、フランスにも類似した話があって、1915年(大正4年)パリのボン・マルシェが火災にあったときも、ほとんど同様な話が伝えられていることをあげ、あるいは、この話は、1881年に大火で全焼したプランタンで起こった出来事が尾ひれをつけて伝えられたのではないか、ともいっています。

 それはなぜかといえば、1915年ごろだと、少なくともボン・マルシェに来るようなブルジョワ女性客や女店員はパンティをはいていたはずだが、プランタン大火のころは、まだパンティの類はあまり普及していなかったので、そんな伝説が生まれたのではないかといい、《ようするに、19世紀末のフランスにおいても、戦前の日本のように、パンティの類いは一部の女性の間では普及していたものの、なお、それをまったく身に着けない女性がかなりのパーセンテージで存在していたのである。》と述べています。

 とまぁ、パンティ本場の国がこういう状況ですから、大正期以前の日本の新嫁が腰巻をまくり上げれば、なにも身に着けていなかったのはあらためてことわるまでもないでしょう。

 それにしても、この行事が、どこぞの料亭の一室かなんぞで、秘密裏に行われていたというのならまだしも、年によっては、《大勢の見物人が押し寄せて、縁側の根太が折れてけが人が出た》(『埼玉の神社』)というのですから、unbelievableという表現も過言ではありますまい。これは、つまり、まさに「関係者以外立ち入り禁止」の状況で行われていたわけではない、ということを物語っています。

 にもかかわらず、田中村に新嫁がいたという事実はなにを意味しているのでしょう。

 これは、NHK朝ドラ「虎に翼」とも関係しますが、簡単にいってしまえば、民法で定められた家父長制の下、当時の女性に自由はなく、家長の意志に従うしかなかったということでしょう。

 こんな話を母から聞いた覚えがあります。

 母は、山梨県東八代郡八代町(現笛吹市)の出身、2人の姉と妹1人、それに弟が1人の5人キョウダイで、父、つまりわたしの祖父が亡くなったとき、親戚筋から、一番下の弟に家督すべてを譲り、4人のムスメたちは相続を放棄しろと強硬に云われ、彼女たちはそれに従ったそうです。これは昭和30年代の話です。戦後、民法が改まってもこうなんですから、明治・大正は推して知るべしというやつです。