馬込名号板碑――なぜ寅子石伝説は生まれたか 5 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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 寅子石伝説で、寅子の身体の一部が膾にされて振舞われたということと共に、わたしが違和感を覚えるのは、ほかでもない、寅子という名である。これはわたしの偏見かもしれないが、絶世の美女に寅子は相応しくないのではあるまいか。もっとも、生まれた子が美女になるかどうかは、名づけられる時点では不明である。したがって、むしろ、女性にトラはふさわしくないというべきかもしれない。NHK朝ドラ『虎に翼』のヒロインでさえ、寅子と書いて、トモコと読ませているほどなのである。にもかかわらず、何ゆえ寅子なのかといえば、それは、そもそもの始めから、この板碑に寅子石という名がつけられていたからにちがいない。つまり、寅子が膾にされて振舞われたという伝説が、鍛冶用語の「鈍す」を解釈するために、作り出された話であったように、この板碑をなぜ寅子石と称するのか、その説明として寅子石伝説が考え出されたのではなかろうか。

 というのは、よく知られているように、トラコ石(寅子石・虎子石)・トラ石・トラ塚などと称される板碑・石碑の類いは、日本全国とはいえないが、かなり広範囲に渡って存在するからである。もっとも有名なところでは、曽我兄弟の兄、曽我祐成と恋仲であったという、大磯の虎、すなわち虎御前にまつわる虎御石・虎石・虎塚などだろう。その数の多さは、柳田國男が、『妹の力』「老女化石譚」の冒頭、こう述べているほどなのである。

 《大磯の虎、後に尼となって諸國を巡歴し、或る地には久しく止住して佛堂供養塔の類いを建て、時としては老いて死没して塚を留め、或は又本來其地の出身などゝ傳へられること、其數の多さに於ては必ずしも和泉式部に負けぬやうである。》

 柳田が挙げている虎御前に因む虎御石・虎石・虎塚などを列挙してみる。
真っ先に取り上げられているのは、本拠本元ともいうべき、神奈川県中郡大磯町大磯の日蓮宗宮経山延台寺に伝わる虎御石。静岡県富士市伝法の虎御前の腰掛石。(「老女化石譚」では、同市厚原の曽我兄弟の墓近くの小川の中に虎石があった、という老婆の話を載せる。)長野県長野市上駒沢の虎塚・虎御前塚・曽我塚。山梨県中巨摩郡芦安村安通の虎御前の鏡石。鹿児島県志布志市の虎が石などで、その多くが曽我兄弟の遺称地近傍にある。

 つぎに、《大磯の虎に附會せざる虎石》として、始めに挙げているのが《武蔵北足立郡春岡村大字深作に、板碑にしてトラコ石と稱するものがある。》と述べているトラコ石である。わたしは、つい最近まで、このトラコ石は辻谷共同墓地の寅子石のことだとばかり思っていたが、よく考えてみると、あたりまえのことだが、北足立郡春岡村大字深作は、今のさいたま市見沼区深作であって、辻谷とは距離は近いものの、全く違う場所である。この辺りで板碑というと、即座に思い出すのが、曹洞宗深作山延命院宝積寺境内にあり、市の文化財にも指定されている宝積寺板石塔婆で、貞和3丁亥(1347年)11月9日の銘がある。しかしながら、色々と文献を渉猟しても、これが「トラコ石」であるという記録はまるで見当たらなかった。宝積寺境内には、他にも何基かの板石塔婆を集めた一画があり、そちらの可能性もないではない。

 

    
     深作山宝積寺 2012年7月撮影

             

                宝積寺板石塔婆 同上

   

      宝積寺板石塔婆群 2008年10月撮影


 そこで、さいたま市の教育委員会事務局生涯学習部文化財保護課にメールで問い合わせてみた。

 返事はこうである。

 「さいたま市史編纂対応部署アーカイブスセンター(現在新しい『さいたま市史』を編纂中である。)に確認したところ、市内にトラコ石に関する調査聞き取り情報はない。宝積寺住職にも確認したが、境内にある板石塔婆とトラコ石との関係はないとの話であった。」(メール以外に、電話でも話をしたが、概ね上の内容)

 ただ、気になるのは、『大宮を歩く 上』(大宮市教育委員会編 昭和63年3月発行)によると、この宝積寺板石塔婆が、元々宝積寺にあったものではなく、《県道東門前・蓮田線近く、春岡駐在所の裏手小島家の前にあった》という点である。『埼玉苗字辞典』によると、深作の小島家は、名主を務めた家柄らしい。現在、大宮東警察署春岡交番はさいたま市見沼区春岡支所の西にあり、近くに小島家があるから、位置としては、当時、すなわち『大宮を歩く 上』が上梓されたころとあまり変わりはないと考えられる。注意すべきは、小島家の南200m、見沼代用水路東縁に架かる橋に膳棚橋があることである。この橋名の由来は、寅子石伝説で、寅子の身体の肉を膾として振舞ったときの膳椀が流れ着いたことによるのだという。

 

    
      膳棚橋 2012年8月撮影

    

       膳棚橋と見沼代用水路東縁 同上


 つまり、わたしはこう考えるのである、膳棚橋近傍にあった宝積寺板石塔婆に、辻谷寅子石と同様な寅子伝承がまとわり、トラコ石の名が付けられた可能性は高いのではなかろうか、と。この板石塔婆がまだ小島家の前にあったころの逸話として、関東大震災の激しい揺れをこの板碑につかまってしのいだという人がいた、というのがある。この震災は1923年(大正12年)に発生したもので、柳田が「老女化石譚」を発表したのは大正5年のことである。柳田が、この塔婆について、所在地のみを記し、寺院名を記載しなかったのは、それが路傍にあったからにちがいない。高さ189㎝、幅54㎝、厚さ6㎝の青石塔婆が道端に屹立していれば、大層目立ったことは云うまでなく、その近くに寅子伝説に因む場所もあったということであれば、この青石にもトラコ石の名が付けられてもおかしくないのではあるまいか。

 このわたしの推測を裏付けるかのように、辻谷共同墓地から西へ2700mほど離れた、上尾市五番町にも、トラコ石があり、寅子伝説と同様な話が伝わっているのである。

 『新編武蔵風土記稿』の足立郡原市村の項には、こう記されている。

 《地蔵院 天台宗川田谷村泉福寺の末 折波山十輪寺と號す 中興開山を尊海と云 古碑一基 銘あれども摩滅して讀みがたし 法印尊海證圓教尊妙圓大中氏記氏女など僧俗の名所々に彫れり土人これを虎御石と呼び親鸞の弟子信佛坊といへる者の建立なりといへどここに法印尊海とあるは即當寺中興開山のことなるべけれは信佛坊の建立と云へるはうたがうべし》

 


 地蔵院は明治元年に廃寺になり、この板碑は、現在、隣接した上尾市五番町の快楽山安養院相頓寺に移された。この寺には、永徳2年(1382年)の銘がある、「南無阿弥陀仏」の六字名号板石塔婆もあり、これをトラコ石と誤解してしまいそうだが、これではない。地蔵院が桶川の泉福寺の末寺だったというのも興味深い。なぜなら、桶川市川田谷の天台宗東叡山勅願院泉福寺は慈覚大師の開山だというからである。辻谷共同墓地を管理する馬込満蔵寺もまた慈覚大師開山の伝承を持つ。

 

    
      快楽山相頓寺

    

      相頓寺本堂

              

                 相頓寺トラコ石 2013年2月撮影

              

                相頓寺 六字名号板石塔婆 同上


 ところで、柳田國男は、板石塔婆や自然石に名を残す、トラ・トウロ・トランという語について、こう述べている。

 《越中立山の結界に石を止めた止宇呂の尼、加賀白山に石を遺した融(とおる)の婆(うば)は、或は諸國に行脚して石の話を分布した虎御前と關係があるのではあるまいか。卽ち今日となつては意味も不明なトラ又はトウロと云ふ語は、此種の石の傍らで修法する巫女の稱呼では無かつたろうか。》《察するに此等のトラ・トウロ・トラン等は固有名詞では無くして道佛の中間を行く一派の女巫を意味した古い日本語であつたのであろう。》(「老女化石譚」)

 越中立山の止宇呂の尼、加賀白山の融の婆、いずれも女人禁制の結界を破ったところ、たちまち石に化したという伝説があり、大峰金峰の都藍尼は、結界を破り、金峰山に登ろうとしたところ、雷電晦冥して、頂を極めることはできなかったという。彼女たち――トウロ・トオル・トラ(都藍尼は「トラの尼」の訛りだろう。)に音韻で共通するのがトラという語である。