遺品4 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

スネコタンパコの、見たり、聞いたり、読んだりした、無用のお話

 この際、敢えて云っておこう、耄碌もまんざら捨てたものではない、と。わたしは、こいつのおかげで、遺品のなかから、お宝を発見したのである。

 それは、増築した部屋の天井裏にある、収納庫から出土した。

 長さ29㎝、幅18㎝、高さ10㎝の桐の共箱に入っていた。箱の上蓋の表面に《昭和四十年十月一日 光文社創立二十周年記念》とある。父は出版関係の仕事をしていたので、遺品のほとんどは出版会社からの贈答品である。

 

           

 やたらに重いその箱の、フタを開けると、なかにはブロンズ製の、なんとも名状しがたい、得体の知れないものが入っていた。なんだろう、魔除けの類いだろうか。いたずらに重いばかりの置物。わたしは即座に廃棄処分の山にこれを放り込んだ。

 当時――といっても、いつごろのことなのか、はっきりしないが、贈答品で灰皿の流行というのがあったのだろうか、とにかく灰皿の数が異常に多かった。それも一癖も二癖もある種類の、ブロンズ、クリスタル・グラス、大理石などという重厚な素材のものがほとんどで、しかも、現今では全く必要とされないものの代表取締役でもあるという、これほどゴミ処分で汲々としている人に顰蹙を買うものもないのである。そんなこともあってか、とにかく、ただひたすらに重いだけでしかないブロンズ製物にはいい加減にしてほしかった。

 数日後、その日は、衣類や日用品で未使用の物なら、何でも無料で引き取ってくれるという業者の来訪日であった。しかし、車に積めるだけという条件があった。2階の20畳以上ある部屋に山積した不用品のすべてを持って行ってくれるというわけにはいかないだろう。できるだけ重い物から運び出そうと考えた。

 それはずっしりと重い箱だった。箱の上蓋の表面に《昭和四十年十月一日 光文社創立二十周年記念》とある。何だろうと思って、フタを開け、なにやらブロンズ製のわけのわからない物を見て、わたしは思い出した。「あっ、これね、いらねえや。」とフタを閉めようとしたとき、上蓋の裏側に何やら署名らしきがあるのに気づいた。そこには、こう記されていた。

                            《桂ユキ子》

 

         

 

           
           

           
 

 調べてみると、『躍動するカッパ』という題名のオブジェで、まぎれもなく、桂ユキ子の作品であった。では、なぜカッパなのかといえば、それは当時の光文社の主力が「カッパ・ブックス」だったからだろう。このシリーズは矢継ぎ早にベストセラーを連発していたのである。

 (1965年ごろ、わたしは中学1年くらいだったと思うが、多胡輝の『頭の体操』、五味康祐の『五味マージャン教室』――当時のわたしの座右の書だった――佐賀潜の『刑法入門』、そして、松本清張の『点と線』『時間の習俗』などを代表とする社会派推理物群――本がエネルギッシュに輝いていた時代――等々を鮮やかに思い出す。)

 では、なぜ光文社はカッパをマスコットとしていたのか。そのワケはカッパ・ブックスの最後のページに書かれてあるので、それを読んでいただきたい。

 

              

 「遺品3」で記したように、桂ユキ子は初めてのドキュメンタリーをカッパ・ブックスから出しており、しかも、その作品が毎日出版文化賞を受賞するという縁から、おそらく、社長の神吉晴夫の依頼を受けて制作したものと思われる。

 

           

             『女ひとり原始部落に入る』のイラスト 『躍動するカッパ』を彷彿とさせる



 確かに、このカッパは躍動している。片目は飛び出し、もう一方の目は空洞で、そのはるか上の小さな頭に、いわゆる、お皿がちょこんと載り、手は水を掻きやすいように板状の櫂となり、両脚の先端部がくっ付いて一つの円形をなしているところは、凍った沼でスケートでもしているかのように見えなくもない。頭脳よりも、直接外部に触れる感覚器官を異常に発達させたカッパは必然的に躍動せざるを得ないに違いない。この作品を見て、神吉は、会心の笑みを浮かべ、歓喜したに違いない。

 そう、わたしも、お宝を手元に置くことができて、このカッパのように欣喜雀躍している。物忘れが激しくなるというのも、決して悪いことばかりではないのである。