大戸のオヒジリサマ 5 吉見町一ツ木のマラ石 下 | 旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

旧・スネコタンパコの「夏炉冬扇」物語

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 ところで、わたしの経験からいうと、椀貸伝承地というのは金属精錬地近傍に多いような気がする。わたしは椀貸伝説を追いかけているわけではないが、不思議とこの伝説と遭遇することがある。

 上に記したように、一ツ木の椀箱沼の近くには鍛治屋敷という小字があった。

 

 これもすでに書いたが、桶川市加納の宮の脇製鉄遺跡の南東330m、舎人新田熊野神社に椀貸伝説がある。ただし、椀貸伝説はそれほど古いものではなく、江戸期以前のものはないのではないかという説もある。舎人新田に隣接する同市小針領家には小字で梶川があり、炭窯跡が見つかっている。また、旧村社の諏訪氷川神社境内からは何時のものと断定できなない鉄滓が出ている。すでに書いたとおり、ここは江戸初期、伊奈忠次が赤堀川を堰き止める備前堤を造成したところでもある。

 

                   舎人新田熊野神社

 赤堀川といえば、茨城県古河市と猿島郡五霞町の間を流れる川に赤堀川があった。これを開削し利根川の新しい流路としたのは、他ならぬ伊奈忠治である。それまでの利根川は今の権現堂川へと流れていた。この赤堀川は伊奈氏4つ目の「赤」であるといっていいかもしれない。なぜなら、同町小福田の圏央道建設に伴って、小字同所から江戸期(18世紀後半から19世紀初頭)の製鉄関連遺構が発掘されているからである。これを同所新田遺跡という。この遺跡の北西2200m、同町釈迦の小字地蔵前から縄文期の遺跡に付随して、鉄滓、椀状鉄滓、羽口が出土している。これを釈迦新田遺跡という。この遺跡の西1500m、同町川妻に穴薬師古墳があり、ここに椀貸伝承がある。

 


            国道4号新利根川橋から上流方面を望む      

          釈迦新田地蔵堂 千手観音も祀られている

                     穴薬師古墳


 日高市新堀の箕輪山満行院霊巌寺東の高麗川に椀貸淵があり、その南西400mにマンガンを産出した大宮鉱山があった。霊巌寺は群馬榛名山麓の榛名神社とかかわりが深く、榛名神社には物部伝承が付きまとう。中世、榛名神社は神仏習合し、満行権現と称した。

 


                  箕輪山満行院霊巌寺


 天明鋳物で名高い佐野市相生町の、かつてあった真菰沼に椀貸伝承があり、また、この沼には鴛鴦伝説も残る。西に金屋・金井の地名があり、金井上町に金山神社が鎮座する。

 


          真菰沼跡 石碑には鴛鴦伝説が記されている


 つぎに挙げるのは椀貸の変化形だと思われるが、さいたま市見沼区深作の見沼代用水東縁に架かる橋に膳棚橋があり、蓮田市馬込の寅子石伝説で、寅子の肉を膾にして振舞った時の膳や椀が流れ着いて有ったとか、無かったとか、という伝説がある。同橋の北西1600m、同区丸ケ崎町に小字有無(あんなし)があり、これは鉄穴師(かんなし)のことと推測される。また、同橋南南東830m同区小深作の小字に鍛治屋敷がある。膳棚という地名は一ツ木の椀箱沼にもある。

 


                     膳棚橋


        見沼区丸ケ崎町字有無にある有無公園

 

 わたしは訪れたことはないが、徳島県阿南市津乃峰町の津峯山に家具の岩屋というのがあって、家具を要望に応じて出してくれる岩屋があった。この900m北に鍛冶ヶ峰があって、かつて刀鍛冶がいたという。

 と、まあ、思いつくところを取り上げたが、詳しく調べればもっとたくさんの例が出てくるにちがいない。

 椀貸伝承について、柳田国男は、まだ確証は得られないが、と断りつつも、木地師が広めたのではないかと推測し(「隠れ里」)、また、折口信夫は河童水神説を唱える(「河童の話」)。蓋し、木地師、河童、いずれにしても、鍛冶と密接な関係がある。

 木地師は木の伐採や加工に使う道具を自ら作っており、タタラ師・鍛冶師としてのスキルがあったと考えられる。河童を紀州日高地方でカシャンボなどというのは火車(カシャ)のことだと南方熊楠は指摘した(柳田国男宛書簡)が、カシャとはカジャ、つまり鍛冶屋のことにほかならない。また、九州で、河童のことをヒョウスペというのは、兵主部のことで、これは兵主神に使える部の民のことである。兵主神は中国の蚩尤のことだともいわれ、銅鉄の神であり、兵器を司る神でもある。

 したがって、椀貸伝承が金属精錬地近傍に見受けられるのは当然といえば当然といえないこともないのである。

 原氏が鍛冶とかかわりがあったのではないかという根拠はまだある。『吉見町史』はこう述べている。

 《荒川は今の原家の前にある椀箱沼のところを流れていたのを、対岸の忍領小谷村(現吹上町小谷)に掘り替え、椀箱沼は旧河身の名残りとみられる。この改修によって、荒川の蛇行も減じ、大囲堤も改修増補されたものと考えられる。なお『新編武蔵風土記稿』にはその記載がないが、この工事の中核になったのが原作兵衛であり、西堂大囲堤の築堤となっている。》

 また、茂木和平が《名主原作兵衛は延宝二年に久下堤を完成し、子孫の五郎兵衛は天保四年堤修築して弘化二年没す。》と述べているように、築堤という大土木工事を完成させるには鉄器の存在が不可欠で、江戸初期の延宝2年(1674)ごろでは、まだまだ一般に鉄がいきわたる状況ではなかったと考えられ、にもかかわらず、原氏が中心となって堤を完成させたというのは、彼らが荒川の砂鉄から鉄器を造り出す方法を熟知していたが故のことだったのではなかろうか。

 一ツ木という村名は原勘解由の発案らしいが、山作衆による命名だとしても、おかしくはあるまい。