転写】過100301

 

 

クラゲ…まったくクラゲみたいな人生だった。
 
 周りから見ても「何なんだろうこの人…」といった感じだったと思う。
 でも生活費を稼ぐためノープランで何にでも飛び込んで行った、あらゆるバイトできそうなものから「闇雲」「燃え尽き症候群」で。それが二十年前からずっとやってきた僕のスタイル。今振り返るとそんなその場しのぎな生き方が良い事なのか悪い事なのか…。
 
 まぁ、それなりに意味はあった。ただ、一貫性の無いこの状態からすると二十年間一体何をやって来たのか、さらに何をやりたかったのか、というとてつもなく大切な部分を見落としてしまった気がする。生きてる以上いまが良かったらそれで良い…明日の事は明日の事。一体何になりたくて?あぁ、そんな事思った事もあったっけ?となって行った。
 
 ところが最近やけに資格だの肩書きと世間が言っている。事実知人とかもそんな方がいてスゴく溝を感じるような気持ちになって落ち込んでしまったり。ちょっと肩書きを付けるだけで何か大変な格がつくように感じられた。
 とくに日本と言う国柄がそうなのか、みんな当たり前のように肩書きがあってなんなんだろうと。それならば僕だってそれなりの肩書きを捻出できるだろう。英名の横文字でそれらしく付ける。
 ようは社会の役に立てれば本質的にはオッケーなのだと思う。そういった意味合いに置いては普遍的にいろいろなサービスを提供する事も可能だろう。それこそ様々な現場であらゆる作業をがむしゃらにやってこなした経験だってあるのだから。その数と言えば、種類と言えば、そこらへんの方より現場は見て来ていると言っていい。ただそこに居ただけと言った事も含めて。
 
 世の中には沢山の業種があって世界中が潮の流れの様に今日も活動しているのだろう。生きている限り、例え無職でも洗濯したり、収入を得るための事を考えたり、食事をする事も世界の潮流の中の一つだと思う。仕事をしていない事を恥じる事はない。生きている事、それだけでも立派に役割がある。

 これから社会が徐々に変わって行く、現にいまどんどん変化している。的外れな昔のシステムの歪みがあらわに噴出しているとでもいうか。その反面、本当に必要なサービスがどんどん人手が必要とされ始めていて、本当に正しく進化するための本質的な分野で全く新しい現場、現実が、新規事業を興させるきっかけとなって悶々としている状態。
 誰も見向きもしない様な事が大きく成長しようとしているといえるでしょうか。まぁ昔からそれは常でしたが。その過渡期。ぶっちゃけ「結果オーライ」なサービスや技能、技術がフリーランス的な形態で通用する社会。
 
 本当に正直にサービスをしている非営利団体や好きなことをしている方々、ボランティアなどにその秘密の鍵があるように思います。いまや世の中はある所にはもう充分な程のものがあります。何かを学ぶのにも図書館があるし、職業訓練制度だってある。世界の中でもある意味日本は恵まれています。おおいのは資格規制、決まり事などで可能性を喪失しているという所でしょうか?そこは足かせと言えるかもしれません。
 でも人生に疲れる事はありません。基本、衣食住が備わっていれば何ら文句が無い。それ、本質だと思うんです。社会性から一歩離れて眺めれば、住む所、食べるものは昔は全て自分たちで賄っていたと言います。戦中戦後は食べ物が無く、サツマイモを植えたり、田んぼ、畑をし、鶏を飼い、自転車のパンク修理、靴が無いから草鞋を編み、何から何までお金の役に立たない中でほぼすべてを習得しながらの自給自足だったと聞きました。それを聞いたときガツンと頭を殴られた様な気持ちになったものです。
 これは無視できない事だと思います。これから世の中を変えるのはこんな所にあると。
 米、野菜、魚、肉、住居、はきもの、服…山道を片道4時間かけてふもとまで歩くと一日で草鞋がだめになるからまた作る。自転車はパンクする…それをなおす。
 何も昔に返れ、とかその頃が良いと言いたいのでもないのですが、現代とミックスさせたらかなり良い感じになりそうな気がするのです。いまの日本はそこが抜け落ちてしまっているのではないかと言いたいのです。