広島城(ひろしまじょう)は、安芸国安芸郡[2]広島(現在の広島県広島市中区基町)に築かれた安土桃山時代から江戸時代の日本の城。国の史跡に指定されている。毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に築いた平城で、1945年(昭和20年)まで天守を始めとする城郭建築が現存し点在していたが[3]、太平洋戦争末期にアメリカ軍の原子爆弾投下によって倒壊し、現在見られる城内の天守以下城郭建築はすべて1958年以降に再建されたものである[4]。
この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた[18][19]。
承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになる[19][20]。
それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた[21]。
だが、元就の孫・毛利輝元の時代、天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる[21]。中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた[21][22]。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた[21]。
1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている[16][21]。
江戸時代初頭に入城した福島正則の増築以降に、城域となった外堀までの約90万平方メートルの範囲のうち、現在の史跡としての広島城は広島市中央公園内[5] の内堀を含む本丸跡と二の丸跡の範囲で、広さ約12万m2[6] と三の丸跡の一部が残る。大坂城や岡山城らと共に初期近世城郭の代表的なもので、[7] また名古屋城、岡山城と共に日本三大平城[8] に数えられる。日本100名城の一つに選定されている。
江戸時代では西日本有数の所領となった広島藩42万6000石の太守浅野家12代の居城となり、江戸時代中期に書かれた『広島藩御覚書帖』で知るところでは、5重と3重の大小天守群以下、櫓88基が建てられていた。1598年に毛利輝元によって創建された大天守は、1945年に倒壊するまで現存天守の中では岡山城天守に次ぐ古式を伝えるもので、外壁仕上げの下見板張りや最上階に高欄を持つ外観仕様は国宝保存法下の国宝指定(1931年)の理由の一つとなった[3]。近代は日清戦争時に、本丸に大本営が置かれるなど軍都広島の中心施設であった。アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下の際には破壊目標地点となり、現存していた天守や櫓、城門が倒壊した。近年の研究で天守は原爆による爆風で吹き飛ばされたのではなく建物の自重により自壊したことが判明している。現在の天守は鉄筋コンクリート構造による外観復元天守である。
外観復元された大天守は歴史博物館「広島城」として利用されている。公園全体は公益財団法人広島市みどり生きもの協会が、博物館(天守閣)は公益財団法人広島市文化財団が指定管理者として、広島護国神社は同神社、堀は広島市がそれぞれ管理している。
本丸跡、二の丸跡以外は都市開発により城跡の面影はなく、城址公園域以外で確認できる遺構は、広島高等裁判所敷地内にある中堀土塁跡と、空鞘橋東詰南側の櫓台石垣程度である[9]。