日本を代表する史跡、金閣寺。


鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗相国寺派大本山相国寺境外塔頭。建物の内外に金箔を貼った3層の楼閣建築である舎利殿金閣(きんかく)、舎利殿を含めた寺院全体は金閣寺(きんかくじ)として知られる[1]




この地は、鎌倉時代元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、併せて山荘(「北山第」)を営んでいた場所であり[4]、以後も公経の子孫である西園寺家が代々領有を続けていた。同氏は代々朝廷鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようとした謀反が発覚したために逮捕、処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収された。このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。

応永4年(1397年)、室町幕府第3代将軍足利義満河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘は、当時「北山殿」または「北山第」と呼ばれた。邸宅とはいえ、その規模は御所に匹敵し、政治中枢のすべてが集約された。応永元年(1394年)に義満は将軍職を子の義持に譲っていたが、実権は手放さず、北山第にあって政務を執っていた。

応永6年(1399年)には相国寺七重大塔が完成し、同年にはいわゆる金閣寺(北山第)舎利殿の初代建物が完成したと推定される[5]。ただし、遣明船の開始は応永8年(1401年)であり[6]、舎利殿や相国寺大塔の建設は遣明船の利益によって財源がもたらされたわけではない。

応永10年(1403年)の相国寺七重大塔(高さ約109メートル:日本史上で最も高い仏塔)の焼失を受け[7]、義満は当地に七重大塔(北山大塔。相国寺七重大塔と同程度の規模か[8])を建立した。

応永15年(1408年)に義満が死亡すると、義持は北山第に住んでいた異母弟義嗣をその生母春日局の屋敷に移し、自らここに入ったが、翌16年(1409年)には北山第の一部を破却して三条坊門第に移った。

応永23年(1416年)1月、七重大塔が落雷で焼失すると、義持はこの地に七重大塔を再建せず、再び相国寺に七重大塔を再建するよう命じている[9]

当時は義満の妻である北山院日野康子の御所となっていたが、応永26年(1419年)11月に足利義満が死亡すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺建仁寺に寄贈された[10]。そして、応永27年(1420年)に北山第は義満の遺言により禅寺とされ、義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺と名付けられた。その際、夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)とした。

足利義満の孫・第8代将軍足利義政はたびたび鹿苑寺に参詣し、舎利殿にも上っていることが記録に残されている。『蔭涼軒日録』には、応仁の乱が終わって8年ほど経った文明17年(1485年)10月15日に義政が参詣した際の、義政と亀泉集証(『蔭涼軒日録』の筆者)のやりとりが記録されている。金閣は応仁の乱には焼け残ったが、当時の境内はまだ荒れており、庭の楓樹の大半が乱のさなかに伐られ、池の水量も減っていたことが義政と亀泉のやりとりから窺われる。義政の問いに対する亀泉の応答によると、二層に安置されていた観音像は応仁の乱で失われ、新しい像に替わっていた。また、三層には阿弥陀如来と二十五菩薩の像を安置していたが、像本体は失われ、像の背後にあった白雲だけが残っていた[11][12]

足利義政は、祖父の義満が建てた舎利殿に倣い、造営中の東山山荘(現・慈照寺)に観音殿(近世以降銀閣と通称される)を建てた。銀閣(慈照寺観音殿)、飛雲閣(西本願寺)と併せて「京の三閣」と呼ばれる。

応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649年)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により1894年明治27年)から庭園及び金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。

  • 茶室「夕佳亭(せっかてい)」 - 金森宗和好みと伝えられる茶室。寄棟造茅葺、三畳敷の席に勝手と土間からなる主屋に、切妻造こけら葺で二畳敷の鳳棲楼と呼ばれる上段の間が連なっている。宗和が作ったものは明治初年に焼失したため、現在の建物は1874年(明治7年)に再建されたもの。1997年(平成9年)に解体修理を行っている。なお三畳敷の床柱は茶席としては珍しく南天の木が用いられており、殊によく知られている。