【正倉院】

正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫聖武天皇光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されている。





【東大寺】

金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら[1])ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁である[2]。現別当(住職・222世)は狹川普文。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、度々修復を受けており、台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、また現存する大仏殿は江戸時代中期(1709年)に規模を縮小して再建されたものである。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。

東大寺は1998年12月に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている[3]





東大寺の門の左右に立つ仁王像



【法隆寺】

法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』から推古天皇15年(607年)とされる。金堂五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である[2]

法隆寺の建築物群は法起寺と共に、1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。建造物以外にも、飛鳥奈良時代仏像、仏教工芸品など多数の文化財を有する。



南大門(国宝)
西院伽藍の南方、境内入口に建つ。入母屋造の一重門。室町時代(1438年)に、当時の西大門を移築し建立。建築当初は切妻屋根であった。


五重塔(国宝)
木造五重塔として現存世界最古のもの。高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は『維摩経』(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重文)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。


西院の東大門をくぐると、広い参道の正面に東院伽藍が現われて、甍の上には見事な夢殿の宝珠が輝いています。ここは聖徳太子の斑鳩の宮の跡で、朝廷の信任厚かった高僧行信(ぎょうしん)が宮跡の荒廃ぶりを嘆いて太子供養の伽藍の建立を発願し、天平20年(748)に聖霊会(しょうりょうえ)を始行したとされる太子信仰の聖地であります。
高い基壇の上に立つ八角円堂の夢殿は東院の本堂で、天平創建の建築でありますが、鎌倉期の寛喜2年(1230)に大改造を受け、高さや軒の出、組み物などが大きく改変されているものの、古材から天平の姿に復元することもできるほど古様を残しています。


京都の史跡や徳川氏ゆかりの寺院仏閣や城と比較すると壮麗さにかけますがそれを十分に補う素朴さや深みを感じます。