何々世界という響きは、

元々は高杉晋作が歌った、
「三千世界の烏を……」の、

仏教用語から思いついて拝借している次第です。
 
形而上のものですが、
 
仏教には全ての世界に三千の仏様がいて、
 
悟りと安らぎを与えてくれる経典があります。
 
しかし世界の多くは、
 
一神教の世界はヤハウェやアラー、キリストやムハンマド等を信じ、
 
教えとしての聖書があり、
 
人間形成や、文化を確立しているのです。
 
過去、異教徒・異宗派で激しい対立をして来ましたが、
 
元は同じ神による同じシステム同士という近い存在なのです。
 
残念ながら、未だに反発し合っている場所も多くあります。
 
しかし現代はグローバル化の波を受け、価値観を理解し合い、
 
精神的ネットワークを共有し合おうともしているのです。
 
 
また、世界は宗教か無宗教かで分断されて来ているようですが、
 
多くは宗教色の濃い原理主義か、そうでないかの違いで、
 
後者であっても彼らは同じ文化が溶け合っており、
 
同一的な普遍的無意識が構築されているのです。
 
世界の一神教に対して日本の思想文化(普遍的無意識)とは何でしょう。
 
殆どの人が無宗教だと答えるこの国、
 
そして、彼らのメカニズムすら知りません。
 
どうして日本は、特有の高い民度が保たれているのでしょうか?
(崩れようとはしていますが)
 
何が私達の心に溶け込んでいるのでしょうか、
 
或いは既に無くしてしまったのでしょうか、
 
我が国は明治に文明開花を合言葉に、世界列強に追いつけという価値観で学んで来ました。
 
確かに文明は追いつきましたが、
 
特別な文化が元々日本にあったおかげで、
(価値観の高いものは素直に受け入れる)
 
様々な流儀を開花させ、今に至っているのです。
 
ご存知の方は知っての通り、
 
戦後GHQの指導の元で民主主義が普及したとか、
 
戦前は真っ暗だった的なイメージで、
 
戦後プロパガンダがなされて来ましたが、
 
それが真っ赤なウソだったというのが今の常識です。
 
かえって明治後期・大正・昭和初期の方が、文明文化に誇りを持ち、
(大正ロマンが起こり、関東大震災から復活する力を持ち、世界大恐慌は世界に先駆けて復活したのです。戦時間際には女性の選挙権法案まで可決されており、事変で中断されただけで、戦後GHQが進めただけです。真っ暗な国がこんな力を持つ訳がありません!)
 
この時、政治も色々ありましたが、世界列強とは堂々と渡り合えていたのです。
 
しかし、一神教文化の人々と文明的価値観は追いついても、
 
深い文化まで共有し合う事はありませんでした。
 
厳密に普遍的無意識レベルで言えば今でもそうです。
 
英語が話せる話せないの問題ではありません。
 
だから戦争になったという話でもありません。
 
あの時代に真の信頼関係からなる普遍的無意識の共有があったなら……、
(人種差別の壁もありましたが、彼らは黄禍論を怖がっていました。今でもそうでしょう。現在、表面上は随分と緩和されて来ましたが、今回はそのことを言っているのでもありません)
 
或いは、日米共に当時の共産主義体制と、その破壊工作を把握していたなら……、
 
という前に、
 
利益的価値観だけの信頼関係ではなく、
 
精神文化の信頼をし合わなくてはならないのです。
 
真に理解し合えること、
認め合える事
信じ合える事
 
精神性なき町人拝金主義がまかり通り、何かを無くそうとしている国と、
 
資本主義でも、無くさない物がある国、
 
価値観の共有が真に出来るでしょうか。
私達の基盤は世界のような一神教文化ではありません。
 
無宗教で結構!
民主主義で資本主義で自由主義陣営で、後は何が必要なんだ?
 
と言う人が多数でしょう。
 
彼らからすれば驚きで得体のしれない異人種です。
 
何か日本人に彼らが深く馴染めない所があるのはそういう事です。
(お隣の国がという事ではありません)
 
現代日本は文明の国で、信用があり礼儀正しいと思われています。
 
しかし、彼らにとっては極東の国の区別さえない程度なのです。
 
私達はその自信を持って精神を固め、己を知り、彼らを知り、世界と堂々と渡り合えるのです 。
 
宗教をしなさいという事ではありません。
 
うまく世界と渡り合いなさいという話でもありません。
 
己を知り、世界観にも適合でき、堂々とした人格を鍛え装える事が、真武道の目的でもあるのです。
 

己とは何か
 
神道には教えがありません。
 
世の全てに神が宿っていて、深くも神秘的な世界が育ち、
 
我々は神社にお参りに行きます。
 
長きにわたりその親しみと崇拝が護持されて来たのです。
 
一方世界は、民族と宗教心が加味された普遍的(共通的) 無意識の国家観なのですが、
 
日本は本当に特殊な国だということを、
 
私達自身が見えていません。
 
古(いにしえ)の時代から、教えが無く崇拝出来るとは、
 
実はどれだけ大きなものなのか、計り知れない事なのです。
 
その中で国民の佇まいが造られて来たとはどういう事か、
 
そもそも武士道の教えを国家思想の如く、民衆が具現化しようとしたのは明治からです。
 
古(いにしえ)の時代から皇室のもと、物部氏・大伴氏の軍事と祭祀を司る、
 
武士道の淵源たる文化は存在していたのです。
 
平安末期、それらが崩壊し荒くれ集団と化しても、
 
神の念は消えませんでした。
 
やがて、戦乱武士にバサラ(江戸期のバサラ者とは違います)という、個人義思想が生まれます。
 
次に、戦国に至る集団戦乱の世で、
 
「死に狂い」思想となったのが、当時の戦国武士達の流儀だったのです。
 
そう我々の祖先は戦の民だったのです。
 
日本に残る山城跡は五万とも十万とも言われています。
 
江戸幕府政権で太平の世になり、
 
覇権者になったこれまでの武士を、モラル変換する必要性がありました。
 
儒教(朱子学)教育から士道が生まれ、我が国独特の義を育てる流儀思想が三百年続いたのです。
 
明治になって武士の時代が終わりをつげ、
 
この精神性も一旦崩壊したようですが、
 
国際舞台を意識する明治政府も中頃になって、
 
国民の西洋かぶれ過ぎや、民衆のモラルなき異常な台頭を危惧する、要人や知識人が現れます。
 
日清・日露を経て、
 
一般にまで、
「世界に通用する、我が国の精神的基盤はなんだ?」と見直されるのです。
 
その代表が、新渡戸稲造氏の
「武士道」であり、
 
様々な本や言論が展開されたのです。
 
これらは江戸期からの武士の精神的有り様から生まれた、
 
儒教(朱子学)的「武士道」であって、
 
江戸で華咲いた武士道が見直されたものだったのです。
 
逆に、本物の武士道と言えるのは、その前の戦国戦乱の侍の姿とも言えるかも知れません。
 
江戸武士道はこの流儀を良く汲み取り作られたのでした。
 
そして明治武士道は現代の世界精神的ネットワーク(ゴールデンルール)でも通用する、基盤となったのです。
 
江戸期にはメジャーではなかった国学や陽明学も、
 
維新の志士達によって幕末・明治に影響を与えます。
 
国学は王政復古へ、
 
陽明学は格物致知として、反朱子学の尊王攘夷思想へ、
(元々の陽明学は荒い思想ではありません。陽明学の行動学から、吉田松陰先生が革命のため「死に狂い」を解いたのです)
 
明治武士道はそれらとも重なり、
近代日本の精神的基盤を成すことになりました。
 
一神教とは「愛と正義」と「義と徳」(義は正義ではありません)の思想で微妙に違うのですが、
 
彼らのモラルと正義感は大したものです。
 
日本もそれ以上に素晴らしいのですが、現在は学校教育のお利巧さで来ているだけだとしたら、
 
ポピュラリズムで崩壊するもろ刃の剣かもしれません。
 
だからNHKは責任重要なのです。
 
視聴率第一主義の民法は最悪です。
(お世話になったテレ朝さんすみません)
 
意識の高かった時代の頃の日本人は、
共に意識の高いゴールデンルールで通じ合えたのです。
 
現代日本人が、その思想さえ失なおうとしたら……!
 
何を信じて良いかも解らず、資本主義のみに走る姿は目を覆うばかりです。
 
価値観が金だけとなれば、崩壊するのは当たり前でしょう。
 
石田梅岩に代表される、江戸期の町人は武士道流儀でした。
 
義と金が結びついていたのです。
 
常に「五条の徳(仁義礼智信)」を秘めていたのです。
己の信義しか見えない人々
己の信義が見えて、彼らの信義も見える人々
己の信義が見えず、かつ彼らの信義も見えない人々
己の金本位信義が見えて、彼らの信義も流儀も見えない人々
 
私が言う、第一世界も第二世界とも、両者にこのように信じる、
高い意識世界が存在しているということです。
 
まるで二つの一神教(第一・第二世界)を深く経験したような私は、
 
両者の気持ちが痛い程良く解りますし、
 
ゼロ世界に生きる者の気もよく解るのです。
 
私はそれが嫌いとか言うのではなく、
 
第三世界は全く違うものと言いたいだけです。
 
かつて相撲のようなものとして、修斗を立ち上げた事がお解りいただけるでしょうか。
 
資本主義の中、売れるが為に創ったのでは無いのです。
第三世界を理解しようとしてくれる皆さん。
 
私が成し遂げようとしている事は、彼らには見えないのです。
 
かつて私が創り興した時は、
今の佐山道場のような、
 
選手の強さを求める仕様ではありませんでした。
 
全てが最初からの創世記です。
 
責任あるルールや、選手の普遍的な力量を育て、
 
未知だった総合の将来(丁度今くらい)の技術を研究開発していったのです(当時は何もありませんでした基本さえ)、
 
勿論、私に総合を教えてくれる人も皆無だったのです。
 
総合は顕著です。
 
ボクシンだけではいけません。
キックだけでもいけません。
レスリンクだけでもいけません。
 
しかしそれらが全て必要でもあります。
 
かつ、それらを足せば良いというものでもないのです。
 
彼らは彼らの競技にプライドを持ち、それが一番だとして教えくれた事が大変勉強になりましたが、
 
私には総合との違いが既に見えていたのです。

丁重に学び、取り入れるものを吟味開発し教えていたのでした。
 
それが今の総合の基本です。
 
二三十年後、その選手が選手を教える為に指導していたのです。
 
ボクシングジムのように、既存の技術や一人一人を強くする環境には無く、
 
今の総合のようになる普遍的取得が必要だったのです。
 
反対に佐山道場は技術を更に解明したい、オーナーと私の目的があり、
 
頂点を目指す第二世界の選手を育てています。
 
かつ第三世界の開発にもなっているのです。
 
第三世界は精神性を重視するものです。
 
当時、新しい世界に走っていた私には、相撲の様な物としか言えませんでしたが、
 
第二世界でやり切れなかった事を、第三世界創造のため祠に十五年間、籠っていたのです。
 
全てを解決しようと没入した事が、今の病を誘発したとお医者さんに言われましたが、
 
それでも私は満足で、これからも集中していくつもりです。
 
私が通って来た二つの世界への責任と信念を守り続け、
 
第三世界を生もうとしているのです。
 
貴方が第一世界にいるのか第二世界にいるのか知りませんが、
 
と前回書きました、
 
私には両者に思い入れがあります。
 
一時、第一世界と第二世界は関係が悪かった時期もあります。
 
両者共に相手が非難したことになっていますが、
 
私から言わせてもらうと、
当時、両者の攻撃は蔑みと憎しみが交じり合いで最悪でした。
 
当時は一般に何も解ってない時代で、
 
第二世界のマスメディアも表れて来ましたが真実を隠しました。
 
最初は選手を守るためでしたが、その業界の取材は今も一切受けていません。
 
0世界に関わりたく無いのです。
 
両者から見ると「あってはならぬ」存在だったのでしょう。

宗教と同じく、
第一世界と第二世界も価値観の違いを分かり合えば、今のような関係になれるのです。
 
第一世界と第二世界、
 
私には愛するこれらの道があったからこそ、
 
第三世界に信念を置けるのです。
 
特殊な新日本ブロレス、感謝です。
 
本物の総合格闘技、感謝です。
 
初代タイガーマスク後援会、感謝です。
 
佐山道場、感謝です。
 
信じてついて来てくれるファンの方々、感謝です。
 
第三世界、道の最終段階です!
 
神田明神さん、感謝です!
 
この様な特殊な国に生まれて来た事、感謝です!
 
我が国から生まれる第三世界が変な方向ではないかとバッシングする輩もいます。
 
どうぞ心配しないでください。
 
かつて精神の何かも解らず、相撲の世界観を目指した若輩者が、
 
格物窮理して、
理想を創ろうとしているだけです。
 
ゼロ世界のない、億兆心が一つとなる世界に恥じない物を創りあげて見せます。
 
私の信念はかつて第一世界から生まれた時と変わりません。
 
精神性が何かを問い、
世界の価値観からも尊敬される、
 
真日本武道を構築するものです。
 
そこはニ千六百有余年の魂と、
 
我が国独特の精神的美を誇れる物を創るのです。
 
美しいとは、古(いにしえ)に見守られ、仁・得・礼がしっかりと構成された(それだけではありませんよ)、
 
世界の価値観にも深く理解される流儀を表すものです。
 
佐山は右翼だとも、スピリチュアルに走っているという輩もいます。
 
なるほど、私はこの真武道構築のために、歴史や精神科学や催眠まで格物窮理していますが、
 
催眠は精神を研究している時に、
本物の無意識を研究実践するためであって、
 
私の本箱には歴史と精神科学とセラピーの本か沢山詰まっています。
(そういうところからしか精神性を解明するものがなかったのです。以前披露させていただいたのは、強さの理論編の一部で、世界でも初のものでしょう。これから更に進みます。無意識と言っても殆どの人がつかめないでしょう。催眠は無意識証拠の宝庫なのです。あるいはクオリア理論等の全く違った理論が現れるかも知れませんが、どうなろうと催眠は真実であり証拠なのです)
 
催眠を武道に直接使う物ではありません。
 
ただ将来、この武道が精神を網羅している証として、
 
柔道で身体を網羅している人が、整骨師になるように、
 
困った人達への助けとして学んで貰いたいと思うだけです。