そのうちに母は女性の口許に耳を近づけて二つ三つと頷くなり、トイレの外へと走り去ってしまった。
残されたのは、個室の便座に座り込み前のめりにうずくまる女性と震えの止まらぬ私だけである。

トイレの天井から照らす蛍光灯の光が個室の開かれたドアに遮られて、個室の中は薄暗い。その影の中に歯を食いしばり、やけに煌々と光る目をカッと見開き血走らせながら女性は間断なく呻いている。
幼い私には刺激的に過ぎた。

じっと見つめあっている訳にもいかず、相変わらず低く呻き続ける女性の背中を恐る恐る擦りながら、私は今にも泣きたいような心持ちで、どこかへ走り去ってしまった母が舞い戻ってくるのを早く早くと待ち焦がれていた。

女性は苦しい息使いの内に、私をチラと見て、ごめんね、こんな時間にね、と呟いた。
大丈夫、大丈夫。
私も精一杯の励ましをしながら、言葉にならぬ不安をなだめるように女性の背を擦り続けた。

やがて母が女性の部屋の夫らしき男性を連れて息を切らしながら戻ってきた。
やや遅れて宿の従業員も騒ぎを聞きつけやってきた。場は一気に騒がしくなった。
緊迫したその場に於いて、私は一人泣きながら微かな安堵のため息をついていた。

女性と二人きりだったその間は、ほんの数分だったに違いない。
けれども、果てなく呻く女性の鬼気迫る横顔を視野に入れながら女性の背をさする私には、終わりの知れない張りつめた長い時間に感じられたのだった。

一段落して部屋に戻るなり、もう起こさないでよ、眠くて仕方ないよと呟きながら母はぐったりと深い眠りについてしまった。

私はまたひとりぼっちである。
布団に横になってもなかなか眠れずに、右へ左へ寝返りを繰り返していた。

やがて我知らず眠りに落ちた。
夢はまだ終わってはいなかった。

気が付くと、再び暗い砂浜と低い音で波打つ海である。

一人、波間に姿が見えた。近くにまた一人、人の上半身の暗い影が見えた。
今度は立て続けに二人三人と揺れる人影が浮かび上がる。
次々に現れる人影が皆腕を上げて左右に手を振るような仕草をしている。

一人が波間に沈んでいった。
別の場所からまた一人、浮かび上がる。

無数の影が、ふっと沈んで見えなくなってはまた浮かび上がる。
表情一つ見えない影はいつしか数え切れないおびただしさになっていた。
どぼん、どぼんと重苦しい波の音だけがある。

私は余りにおどろおそろしくも淡々と続く陰鬱な光景に酷い息苦しさを覚えていた。けれども、どうしても目を背けることさえ能わず、相変わらず定点カメラのように動かぬ視点でその無数のゆらゆらと揺れ動く影達を息も絶え絶えに恐怖しながら凝視せざるを得なかった。

もう無理だ。
なんなんだこれは。
嫌だ嫌だ。
助けて。助けて。戻りたい。

声にならない叫びが私の体内に虚しくこだましている。


ふと、ピイピイと甲高く鳴く鳥の声が聞こえた。すぐに飼っているインコの声だとわかった。

視界の隅から、暗い中でもはっきりとインコの鮮やかな青い羽と真白いお腹が見えた。夜目にも鮮やかなその姿は、まるでそこだけスポットライトで照らされているかのようだった。
インコは私の視界のギリギリ映る暗い夜空を、円を描くように激しく鳴きながら飛んでいた。

誰も見知らぬ異様の世界に、いつも一緒に暮らしているインコが来てくれたのだ。
私の安堵はいかばかりだっただろう。
助かった。はっきりとそう思った。
こんな世界に来てしまった普段はか弱くおとなしいインコは大丈夫なのだろうか。
助かった嬉しさと言い知れぬ不安とに、声にならない嗚咽を漏らしていた。

インコはなおも激しく鳴き続けている。


はっと目が覚めた。
戻ってこられた。
静かな波と部屋の時計の音と激しく脈打つ鼓動だけが一定のリズムで響いている。
私の頬はうっすらと濡れていた。

ガバと布団から起き上がる。
なによりもまず、急いでインコの篭を見に行った。

なんとなく、夢の中でも予感がしていたのだ。
インコは止まり木から落ちて小さく身を縮めたまま固くなっていた。

篭の口を開けて抱き上げたインコは、ぎゅっと目を閉じたままその瞼を開かなかった。


インコの青いきれいな羽を、私は震える手でそっとなで続けるしかなかった。

ああ。なんて事だ。なんて日だ。

ふと窓の外を見ると、空は最早夜の闇から夜明け前の藍色に移りつつあった。
インコの亡骸と共にテラスに出ると、ひんやりとした清潔な潮風が大気に満ちている。そこにはもう、あの夢のおどろおそろしさの欠片すらなかった。

本当にごめんね、助けてくれたんだね。有難う。

長い夜だった。

夜明け前のまだまだ蒼く暗い海と空とを流れる波と雲とに、私はただただ涙の頬を伝うにまかせるしかなかった。



偶々怖い夢を見ただけなのかも知れない。
偶々不気味な事件が怖い夢と重なっただけなのかも知れない。

けれども私にはそれだけとは思えない。
この世には、何かしら異常な世界が別にあって、ふとした弾みで境界線の曖昧になるスイッチが入ってしまうのかも知れない。
言い換えれば、この世界と異常な世界とがラジオのようにチューニングが合ってしまう時があるのかも知れない。

その異常な世界から戻れなければ、どうなるのか。
もしあの時、可哀想なインコが身代わりになってくれなければ。

その時は私も暗い波の向こうの存在になっていたのだろうか。

インコの遺影にお水を供えて手を合わせながら、割りと真顔で考え込んでしまう。


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