湖には君が沈んでいる。
見たわけじゃないけどたぶんそうだ。
だって、巨大な黒い水の集まりはぼくの心を作る細胞の成分とおなじ。
悲しい心を隠すふりなんか簡単だ。
ポケットから電話を取り出した。
おまえから電話がかかってこないかなあと思ってみた。
そんなはずはない。
冷静な愛を持つおまえはおれの声なんか聞きたいそぶりを見せない。
湖面の模様がぼくの足首をつかまえて引き摺りこみ、遠い過去の映像を鮮やかに見せてくれる。
あれはかわいい子猫だった。
たぶんぼくらは残酷な子どもだった。
自由な世界が欲しくて友達と小さな川の橋の下に基地を作った。
そこにもらってきた灰色の子猫を住まわせた。
目玉だけがきらきらしてる本物の子猫だった。
おれはジョリーって名前をつけようと思ったけど、友達がおいとかネコとか呼んでたからおれもジョリーとは口に出さなかった。
段ボールに新聞の広告紙を敷いてそいつの寝床にした。
子猫は近所の人にもらった。
子猫あげます、と壁に張り紙がしてあったからくださいと言いにいったら簡単にくれた。やさしそうなおばさんに、かわいがってねと言われた。
初めて子猫を抱いたとき、こんなに小さいとは思わなかった。
こんなにかわいいとは思わなかった。
橋はうちから歩いて数百メートルくらいのところにあって、最初の二日か三日はほとんど数時間おきに行った。
四日目に大雨が降った。
その日、たまたまなにか悪いことをして父親に殴り飛ばされた。
めちゃくちゃ叱られて完全に家から出れなくなった。
川の水かさが増しておれたちの基地は汚い水に沈んだ。
やっと家から出れるようになった翌日、橋の下はごみだらけだった。
傷だらけの一斗缶とか、芸術のような木の枝とか、波の模様を描いた泥が洗剤が腐ったみたいなにおいとかがあった。
子猫は段ボールごといなかった。
おれひとりで見にいったのだけど、その光景を前にだんだん背筋が寒くなってきた。
たぶん増水した泥水に流されてしまったであろう子猫のことを想像してみた。
たぶん、死んだだろうと思った。
どのように死んでしまったのだろうと思った。
気づけばおれは息を止めていた。
あの子は溺れてしまったんだろう。
溺れて命がなくなるのってどういう気持ちだろう。
そういうことを考えていたんだろうと思う。
この川の流れをずっと追いかければ広い海まで続いている。
でもたぶん、途中で沈んだにちがいないと思った。
乱暴な泥水のうねりの中に。
そういうときの子猫ってどういう声を出すんだろう。
どういう顔をするんだろう。
考えているうちに何度も息を止めていて、まばたきもしなかった。
唇が乾いていっておれはたぶん、これまでと違う種類の人間になってしまったんだろうということを感じていた。
友達とは会いたくなかった。
たぶん、おれたちはいろいろしゃべりまくっているうちにふざけてしまうだろう。
傷つくのがいやで冗談にしてしまうだろう。
もし子猫をくれたおばさんに会ったらなんと言おうかと思った。
このことが父親にばれたらどうしようと思った。
たぶん死ぬほど殴られるだろう。
父親のことが怖かったからおれは子猫の話はなかったことにしようと思った。
またその翌日、友達がおれの家に来た。
さっき基地に行ったんだけど、猫のやつ流されたな。溺れて死んだんだろうな。かわいそうなことをしたな。これはおれの考えなんだけど、ふたりであの猫の葬式をしてやろうぜ。
そんな感じのことを言っていた。
おれはこう言ったんだ。
猫ってなんのことだよ。
わけのわかんねえこというんじゃねえよ。
ぶっころすぞ、ばか。
二度と猫のことなんか口にするんじゃねえよ
おれは猫なんか知らないんだよ。
まったく知らないよ。なんだよ。猫って。
おまえ気でも狂ったんじゃないのか。
死ね。このくそばかやろう。
おれはめちゃくちゃ怒った顔を作って低い声で言った。
友達はびっくりしてちょっと考えたあとで笑って、そうかと言った。
それからしばらく眠れなかった。
勉強なんか手につかないし、いろんなやつを殴った気がする。
おれはかなり嫌われ者になった。
友達は友達ではなくなった。
あいつはおれが怒った顔を見せたのにどうして笑ったんだろう。
おれはなんでジョリーなんて名前、思いついたんだろう。
意味なんかあったのかな。
ともかく、そのころからだと思うけど、たくさんの水を見るとぼくは怖いと思うんだ。
あの子猫はすごく小さくてかわいかったよ。
ぼくが殺したんだ。
ぼくは大好きな君からの電話を待ってる。
夕方だからそういう気分になってもしかたないさ。
でもたぶん、かかってきても出ないだろう。
泣いてるから。
たぶん声が変わってしまってるんだ。
おれの声はおれの声じゃない。
ぼくが殺したんだ。
ぼくが沈めたんだ。
深くて黒い湖の中にひっそりと。